⦿2026年の正月を迎え、「新年、明けましておめでとうございます。昨年は色々お世話になりました。昨年同様今年もよろしくお願いします」とどこでも挨拶を交わします。ところが教会には、もう1つの新年があります。それがクリスマスです。
じつは聖書は、時間について2つのことを語っています。1つは私たちの時間です。神は天地を創造されたとき、<夕となり、朝となった。第1日である>と語っているように時間を造られました。私たちは、縦・横・高さ・時間の4次元の世界で生きています。その時間は、過去→現在→未来へと流れています。それが私たちの時間(クロノス)であり、歴史や時代です。
今1つは、賛美歌で<昔在し、今在し、永遠に在す>と歌い、黙示録に<今おられ、かつておられ、やがて来られる方>と讃えているように、私たちの時間を超えた神の時間(カイロス)です。復活したイエスが鍵のかかった部屋にスッと入ってこられたように、神は多次元の世界におられます。クロノスから見れば2026年の正月が新年ですが、クリスマスを新年というのは「神の歴史」から見るからです。
⦿そして教会も、同じように見ることが大切です。永遠の昔に立てられた計画を、神はイエス・キリストの死と復活と昇天と聖霊降臨によって実現されました。それが教会ですが、これも普遍的教会と地域教会の2つがあります。普遍的教会とは、使徒言行録2章が伝える聖霊降臨以来、キリストを信じて救われた信者みんなを含む概念です。また地域教会とは、今現実に各地で神の働きをしている教会のことです。この2つを対立的に見て、一方に関心を寄せるのは危険です。
神の言葉を聞き、神の愛を人々に伝え、実行するのは地域教会です。そのために牧師や役員などの組織を作り、建物の維持など活動資金を募ります。しかし、差別や世俗化を招き、つねに刷新しなければならない問題を抱えています。普遍的教会は、それを乗り越え、キリストの名にふさわしい教会に成長する力を与えてくれます。教会は、普遍的教会の中にある地域教会としての責任と使命を持っています。
中には普遍的教会に偏っていて、現実に教会に集まっている人を見て、あの人は救われていない、この人は救われているといったとんでもない見方に陥っている信者を見かけることがあります。もしそのように思うならば、まずあなたには愛がない、むしろ真っ先に神から問われるのはあなたですよ、ということを気づかなければならないし、気づくように求められているのです。
⦿今、礼拝では出エジプト記を取り上げて、最初から読み進めています。いつものように前後の文脈を確認します。神のすばらしい奇跡のわざによって、およそ2百万のイスラエル民族は、海が分かれて乾いた地となった所を通ってエジプトを脱出しました。その後、シュルの荒野に入ると3日間、水がなく、やっとマラで水を見つけましたが、苦くて飲めず、不平を言われたモーセはすぐに主に助けを求めて叫びました。すると神は、水を飲めるようにされました。そして神は、水を得て落ち着いた人々に、モーセを通して掟と法を語られました。そして、マラを出発させてエリムに導かれました。そこは豊かな泉となつめやしがあり、彼らは十分に休むことができました。
この<マラとエリム>の出来事から、私たちは、神がイスラエルの民を訓練していることを知りました。彼らはアブラハムの子孫である。アブラハムと無条件契約を結んだ神は、彼らがどんな状況になっても祝福し、神に選ばれた民族にふさわしくするために守り、生かし、愛されていることを知りました。だからこそ彼らは、さらに厳しい訓練を受けることになります。それが今日お読みした16章です。マナという天からの食べ物と安息日について、じつに生々しく伝えていますが、これは私たちに対する印でもあります。
⦿エリムを出てシンの荒野へ向かったのは、エジプトを出てちょうど1ヶ月であって、エジプトを出るときに急いで作った酵母のない練り粉がなくなるころでした。主食の米がないのと同じ有様となった彼らは、高まった不安をモーセにぶつけました。「エジプトにいたときは鍋に肉がたくさん入っていた。パンも腹いっぱい食べられた」と、過去を美化し、ずいぶん誇張した不平を神にではなく人間にぶつけたため、問題は解決せず、不安はさらに高まったのでした。
モーセは一生懸命に祈ったと思います。すると、驚くべき神の言葉がありました。<見よ、私はあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。ただし、六日目は、毎日集める分の2倍ある>。
ここで注目すべき言葉が2つあります。1つは、この後神が、<私は、彼らが私の指示通りにするかどうかを試す>と言われたことです。今1つは、モーセが彼らに、<あなたたちは我々に向かって不平を言っているが、一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々にではなく、実は、主に向かって不平を言っているのだ>と繰り返し語ったことです。
⦿やがて朝、宿営の周りに露が降り、時間とともに蒸発して、霜のようなものが大地を覆いました。<人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った>と書いています。「これは一体何だろう」をヘブライ語で「マン・フー」と言い、それがマナの由来です。新約聖書はより語源に近く、マンナと表わしています。そして、<コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした>とだけ書いています。
私たちも、それがどのように起こるのかと問うたり、あれやこれやと分析したりしないで、あの海の時と同じように、食糧が尽きて絶体絶命の危機に直面したときに、神がまたもや天からパンを降らせるという超自然の世界が自然界に侵入してくる出来事を起こされたという事実だけを受け入れたいと思います。いずれにせよ、おどろくようなことが起こっていることは確かです。しかも今日お読みした聖書の最後には、<約束の地に着いて土地の産物を食べるまでの四十年間、マナを食べた>と書いてあります。このことを素直に信じるならば、その人がどんな状況にあろうとも、天から恵みが降り、またその人を訓練するために天から裁きが降って、その人は生かされ、愛され、祝福されることを覚えておきたいと思います。
⦿ここで神は、マナと安息日の掟によって、イスラエルの民を本格的に訓練します。神が<私は、彼らが私の指示通りにするかどうかを試す>と言われたのは、<毎日必要な分だけを集める>ことを守るかどうかということでした。私たちは、主の祈り(正確には「主が教えた弟子の祈り」)の中で、<私たちに必要な糧を今日もお与えて下さい>と祈りますが、原文では「今日も」ではなく「今日」です。新共同訳聖書になって、<今日与えて下さい>と正しい訳になりました。
イスラエルの民も、毎日必要な分だけ集めないで蓄えようとしました。そのため虫がついて臭くなりました。これは、マナの成分ではなく神の裁きによることは後で分かります。欲望の始まりは、蓄えることから始まります。モーセは怒りました。それで彼らは、朝ごとに必要な分だけ集めるようになりました。
⦿また、神が試すと言われたのは、<ただし、六日目は、毎日集める分の2倍ある。>と言われていることと関係があります。それは、イスラエルの民に安息日を守らせることでした。安息日は、十戒の中にある掟の1つです。十戒は、出エジプト記20章と申命記5章に書かれていて、全く同じ内容ですが、安息日の掟だけは異なります。しかも十戒の中で、その守り方まで書かれているのは安息日だけですので、特別に重要な掟であることがわかります。
出エジプト記では、神が天地の造り主であることを覚え、神が7日目に創造のわざを休まれたように、安息日には創造的なわざを休むことを命じています。どんな仕事も禁止しているのではありません。神は6日間、創造のわざをされて、それを7日目には休まれました。そのように創造的なわざになることを禁じているのです。
ところが申命記では、神が奴隷であった自分たちを解放されたことを覚え、奴隷たちに自由であることを知らせるために安息日に休むことを命じています。イスラエルの中にも奴隷がいました。その奴隷をも週に1日休ませるのは、古代社会においては仰天するような掟でした。神は、<私は、エジプトで奴隷であったあなた方を解放した、だから、奴隷も自由であり人間であることを覚えさせるために、安息日には休ませなさい>と命じているのです。
そして神は、安息日を守らせるために、この日にマナを集めないですむように、前日にいつもの2倍の量を集めることが出来るようにされました。しかも翌日になっても、虫がつかず臭くもなりませんでした。ですから、毎日必要な分だけ集めることをせず、欲を出して蓄えたら虫がついて臭くなったのは、神の裁きであったことが分かります。
⦿このマナの奇跡と安息日の戒めから、私たちはとても大切なことを学ばされます。神は、必要な食べ物と安息日の戒めをもって、彼らを神に祝福された民となるように訓練されました。それも「飲み水と食べ物のない荒野」という場所において訓練されました。ところが彼らは、神の戒めを破って蓄えようとしました。確かにそれは、毎日集めないですむし、合理的です。しかしそれは、<必要な分だけ集める>という神の指示に背くことでした。
また安息日に、2日分の量があるのにまだ集めようと出て行く人がいました。これに対して神は、<いつまで私の戒めと教えを守らないのか。>とモーセに告げています。そしてこの後、<七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない>と非常に軟らかい文章に訳していますが、実際は<自分の所から出るな!>という強い言葉です。<休みなさい>が<休め!>に変わったとき<それでようやく民は休んだ>(これも強い言葉です)のでした。神の言葉は、恵み深い。しかし、それを守らないで破るならば、恵みの言葉は命令の言葉に変わります。
神は、<天からパンを降らせる>と言われました。イエスも、<私の父が与えた天からのまことのパン>(ヨハネ6:32)と言われています。詩編78:22~25には、マナについて生々しく書いています。その中で25節を、<人は力ある方のパンを食べた>と書いていますが、原文はレヘム・アビーリームです。レヘムはパン、アビーリームはアビル(天使)の複数形です。ですからマナは<天使たちのパン>なのです。天使たちが運んできたのではなくて、天使たちのパンです。じつに驚くべき内容です。比喩あるいは何か他のことのたとえではないかと思うでしょう。しかし聖書は、神は荒れ野でイスラエルの民を<天使たちのパンで養った>とはっきりと書いています。しかも40年間、イスラエルは神に選ばれた民として、全く食べ物のない場所で養われたのです。だから彼らは、今も民族として存在しているのです。
⦿安息日は、金曜日の夕方から土曜の夕方までの1日であって、日曜日ではありません。初期の教会は、ユダヤ人の教会であり、信者は皆、安息日を守ることは当たり前でした。そして、イエスが復活したのは日曜日の朝でした。そこで初期の教会の人たちは、日曜日を<主の日>と呼んで定期的に集まりました。つまり、土曜日は安息日=休みの日として守りました。そして日曜日は、主の復活を祝う日=主の日として守りました。もちろん働いていました。このことを私たちは、あらためて考える必要があるのではないかと思います。なぜなら、今の教会では、日曜日を律法主義的あるいは無律法的に理解している人が多いからです。
私たちは、休みの日としての安息日と主の復活を祝う日としての日曜日の両方を守っていた初期の教会のあり方を考えることは大切ではないかと思います。神はモーセを通して、<主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった>(申命8:3)と語っています。そしてイエスは<モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。…私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる>と言われました。またイエスは<人の子は安息日の主である>と言われ(マタイ12:8)、神はこのイエスは復活させられました。
今日、マナの奇跡と安息日の戒めを聞き、復活した主を覚えるとき、日曜から土曜までの1週間全部が主の日であり、また安息日ではないかと思うのです。イエスによって安息日の意味が実現されたからです。<必要なパンを今日与えて下さい>と、生きたパンであるイエス・キリストを見上げて祈りながら、新しい年を送りたいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜