2026年2月15日 聖書:出エジプト記18章13~27節「賜物に応じた奉仕の勧め」川本良明牧師

⦿今イスラエル民族は、エジプトの支配から解放されてから3ヶ月が来ようとしていました。およそ2百万もの集団ですからじつにゆっくりとした移動ですが、シナイ山の麓に向かう荒野の旅も最後とも言えるレフィディムという場所に来ていました。そこで起こった危機的な出来事を出エジプト記17~18章が伝えています。17章には、飲み水をめぐって人々が神とモーセに激しく逆らい、またアマレクとの民族存亡を賭けた戦いが書かれています。
 どちらの危機も<神の杖を持ったモーセ>によって乗り越えられ、神がモーセと共にあることを実体験したイスラエルの人々は、ようやくモーセが主の証人であることを認め、彼を中心とした民族としてまとまりました。そんなとき、モーセのしゅうとでミディアンの祭司エトロが訪問してきました。そしてモーセから、イスラエルの民に示された主なる神のわざを聞いたとき、彼は主をたたえました。そして、かつてアブラハムを祝福したサレムの王で祭司であったメルキゼデクと同じように、モーセとイスラエルの民を祝福し、神の前で共に食事をしたのでした。
⦿その翌日、エトロは、モーセとイスラエルの民が行なっていることを一部始終見た上で助言をしました。それが先ほどお読みした聖書の個所です。彼の助言の内容は、じつに実際的で適切なものでした。その助言によって、モーセは、民の代表として神の前に立ち、民の中で起こる事件をすべて神に伝えると共に、神の掟と教えを示し、人々がそれを実際の生活に適用するまでに理解させました。そして、民の中から千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長を選び、小さい事件は自分たちで裁くようにしました。その選ぶ基準も助言していますが、<神を畏れる有能な人>とは、誠実で物事に対して忠実で裏切らない人のことです。また<不正な利得を憎み、信頼に値する人>と助言しています。先日、衆議院選挙がありましたが、日本の政治家でこの基準に該当する人がどれだけいるでしょうか。企業でも、こういう人がいるかどうかで、その会社が祝福されるかどうかが決まります。上に立つ人の重要な責任は、何を基準にして人材を選ぶかです。
 モーセは、そのことを神に祈り願って、それぞれの隊長を選び、自分たちで裁くようにしました。つまり、モーセが神と関係をもつだけでなく、民自身が直接神との関係をもち、モーセから示された掟と教えをもとにして互いに仕える生活を始めるようにしたのです。こうして、イスラエルの民一人ひとりが神の前に自立すると同時に、今1つ重要なことは、<神→モーセ→民>という仕組みから、<神→モーセと民>という仕組みに変わることで、人々がモーセからも解放されることになったことです。このすばらしい知恵を、エトロは神から示されてモーセに授けたのです。そして、何よりもすばらしいのは、このエトロの助言を積極的に受け入れたモーセの柔軟さとモーセの謙遜さです。そしてこの背後に、恵み深い神の働きがあることを忘れてはなりません。
⦿これまで繰り返し見てきたように、神がイスラエル民族をエジプトから解放して荒野へと導いた目的は、乳と蜜の流れる約束の地カナンに入らせるために、神が聖いお方であるように彼らを聖なる民にすることでした。それは、彼らの先祖アブラハムと結んだ契約に基づいて、神を中心とする共同体を建設することでした。この神は、まことに誠実の中の誠実であるお方です。一度約束されたことは絶対に守り、裏切らないお方です。ですから今も預言者を通して預言されたことは着実に実現しています。このことが今の世界の動きであることを忘れてはなりません。
 じつは、すでに神は恵みをもって、その共同社会を作り始めていました。そのために大きな役割を果たしたのが、安息日を守ることとマナという天からの食べ物で養われることでした。これについては、私たちはすでに出エジプト記第16章で学んでいます。マナは、毎日、必要な分だけ与えられ、六日目は、次の七日目が安息日なので二日分与えられました。安息日は、週に一度、奴隷も家畜も外国人もすべての仕事から解放されて、休みと祝いの日を過ごす日です。これは、今でこそ国際的に常識となっていますが、当時としてはじつに画期的な制度でした。これがイスラエル民族から始まって、今も守り続けられているのです。
 <ユダヤ人が安息日を守ってきたよりも、安息日がユダヤ人を守ってきた>というユダヤ人の格言がありますが、私たちにとっても安息日はとても大切なものを与えてくれます。認知症の問題が、今日本でも話題になっていますが、「話し相手がいなくなると、認知症が急速に進む」と言われています。このような現代社会にあって、教会で週に一度の交わりを持つことがいかに重要で意味深いことかを再確認すべきだろうと思います。
⦿神がイスラエル共同社会を形成していく目的を考えるとき、あらためて人類の歴史を考えます。人類は、地上に誕生して以来、良くても悪くても集団生活を営んできました。集団生活の中でも家庭(ホーム)は、人間が人間に成るためのもっとも小さな共同社会です。しかし人類は、それを国家にまで発展させたとき、他を支配する非人間的な共同社会にしていまいました。
 先日、地区の教会は、信教の自由を守る日として2・11集会を開きました。北九州市では「建国記念の日奉祝北九州市民大会」として「日の丸行進」が行なわれ、「語り継ぎたい美しい日本人の物語」という講演が開かれました。「美しい日本の国」とは、世界の王朝は皆、興亡を繰り返しているが、日本だけは唯一の王朝が続いている国つまり国体であるという意味です。先日、自民党が圧勝して、危険な時代が来ようとしています。2040年が近づいています。それより百年前の1940年、日本基督教団も含めて全国的に「奉祝皇紀2600年」を祝い、その勢いに乗って翌年、日本は米国との開戦に踏み切ったのです。
 歴史を振り返ると、日本は欧米諸国に追いつき追い越せと富国強兵・殖産興業を合い言葉に、倒幕から20年で憲法と議会をもつ立憲国家となりました。その5年後には日清戦争、その後10年単位で大戦争をくり返しました。それは、天皇を頂点に据えてアジア諸国を踏みにじるものでした。しかし、わずか半世紀で、日本はアジア大陸と太平洋の島々でのたれ死に同然の結果を招いたことを私たちは知っています。このように日本は、強い国をめざしたわけです。
⦿しかし聖書の神は、全人類を罪の奴隷から解放して永遠の命にあずからせるために、イスラエル民族を興し、神を中心とする共同社会を形成させるために、彼らをエジプトの奴隷身分から解放し、まず安息日中心の生活を定められました。そして今一つは、裁判制度ともいえる法制度を定めました。それがモーセのしゅうとエトロを通して示された先ほどの仕組みです。これは、まもなくシナイ山の麓で神から授かる十戒を中心とするモーセの律法において体系化されますが、その前準備となる共同社会の仕組みなのです。
 さらに、神が臨在する幕屋を建設しますが、こうして神中心の共同社会が形成されたとき、神はヨシュアを指導者に立てて約束の地カナンに入っていきます。そして、神との契約に生きる民として、苦難の歴史を歩ませることになります。それは、やがて神ご自身がユダヤ人の一人として生まれ、十字架と復活のおどろくべき恵みのわざによって全人類を永遠の命にあずからせるためです。そのために彼らは、その共同社会の中で互いに仕え合う民とされていくのです。
⦿このイスラエル共同社会は、教会の型であります。先ほど招詞においてローマ12:6~8を聞きました。使徒パウロはここで、人には預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善などいろんな賜物を神から与えられていると語っています。彼はⅠコリント12章でも同じことを語っていますので、合わせて読まれると良いと思います。パウロは、それぞれ神から与えられた自分の賜物をもって奉仕することを勧めていますが、その場合、見落としてならないことは、すべての奉仕に先立って、<キリストにあって>(エン クリストス)と語っていることです。
 ここでは<キリストに結ばれて>と訳していますが、新約聖書の書簡に数多く見られるこの<キリストにあって>ということが、奉仕の際にまず心得ておかねばならないということです。これは、イスラエルの民一人ひとりが、モーセの示した神の掟と教えをもとにして、神の前に立ち、自立した共同社会の一員となることと同じです。私たち一人ひとりも、教会の中で、キリストにあって神と直接つながる共同体と一員なのです。
⦿今1つ重要な教会の型は、人々がモーセから解放されたことです。今までモーセのもとで教え導かれていた人々が、このモーセから解放されて、直接神と関係を持つ自立した人間になりました。これは、私たち教会にとって大変大切なことを教えています。
 教会は、長い間、<神⇒教会⇒この世>という構図をもって、この世に対して神の代理人を自認していました。そのために教会内部でも、<神に近い人⇒次に神に近い人⇒平信徒>という構図を作ってきました。賛美歌を歌うのも、聖書を読むのも上層部の人に限ってきました。これに対して宗教改革が起こり、万人祭司を主張しましたが、今もなお、<神⇒牧師⇒平信徒>という構図を温存していて、信徒は直接神とのつながりを持たないで牧師から解放されずにいます。こうして教会は、<教会はキリストの体である>という真理を有名無実にしてきたのです。
⦿<教会はキリストの体である>ということは、信仰の目をもって見なければ見えない真理です。信仰の目をもって見ない教会は、ただの人間の集まりにすぎません。しかし、教会を信仰をもって見るならば、教会はイエス・キリストの地上的・歴史的な存在であり、キリストにあって互いに仕えるために集められている共同社会であることが分かります。そこに結ばれている兄弟姉妹は皆、それぞれが救われて来たのです。救いとは、<イエスが私たちの罪のために十字架に死んでくださったこと、墓に葬られたこと、3日目に甦えって今も働いておられること>という信仰を与えてくださり、救って下さった神の愛に応えて、自主的に集まって来て奉仕をするのです。
 もちろん、仕え方は人それぞれです。そこに優劣も良し悪しもありません。ただキリストにあって仕え、奉仕し、互いに愛し合う集まり、それが教会という共同社会なのです。<教会はキリストの体である>とは、聖霊として働いておられるキリストの体であるという意味でもあります。教会は、聖霊の働きによって存在する<キリストの体>なのです。つまり教会は、その働き手を聖霊が集め、働き手の賜物を生かすために聖霊が建て、福音を宣べ伝える働き手を聖霊が世に派遣する共同社会なのです。すべて主語は聖霊です。私たちは、微力で貧しく少数です。しかし、このような私たちを用いて、聖霊が集め、聖霊が建て、聖霊が派遣する共同社会、これが教会であることを再確認したいと思います。

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