2025年7月20日 聖書:マタイによる福音書20章1~16節「最後の者への救い」 土肥 聡

ある人が「ぶどう園の労働者」の譬え話を面白くない話であると言っています。
人間の理屈に合わないからです。市場に集まって仕事を待っているのは日雇い労働者です。主人に雇われるならば、仕事を得て生活の糧が与えられます。
最初に主人に雇われた人たちは1デナリオンの報酬、1日相当の賃金が約束されています。
日雇い労働者は仕事がなければ、自分も家族も食べることができないほど切迫しています。ですから、誰かが自分を雇ってくれないかと待っているのです。
すぐに雇われたのは若くて能力のある人たちですから、仕事に就くことができましたが、しかし、ずっと仕事を待ち続けた人たちは、年齢も高く弱々しい人たちで仕事を得ることができませんでした。
今の社会も、能力の優劣が人の評価になっているために経済的格差が生まれています。また競争社会によって「勝ち組」「負け組」に二分されています。
ぶどう園の主人は仕事を待っている人たちに「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言われます。
おそらく夕方で収穫が終わりになり、人手も十分であったに違いありません。
ここに主人の驚くべきやり方があります。
そして少ししか働かなかった人たちから順々に「一デナリオン」と同じ額の報酬が手渡されていきます。
それを見た長く働いた人たちから「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」と不平がぶつけられます。それゆえにこの譬え話が「面白くない話」と言われます。
最初の人に主人は言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。」この言葉には最後の者を憐れむ断固とした思いが込められています。
この最後の者はだれのことでしょうか。
私たちも生きる喜びも意味も見出せない。人からも顧みられないと自分を見ているかもしれません。
イエスさまがそういう私たちに「わたしのところに来なさい」と招いてくださいます。
そこに神の大きな愛を知らされます。
この後、17節以下に弟子たちへの受難予告を続いています。
ご自分の死を覚悟して譬えを語られました。
十字架でご自分の命を捨ててまで私たちを愛してくださる恵みを感謝しましょう。

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