2025年11月16日 聖書:出エジプト記14章19~25節「主が戦われる」川本良明牧師

⦿聖書の最初の5つの書を書いた著者は、イスラエル民族をエジプトから脱出させた指導者のモーセです。彼がこれを書いた目的は、今は荒れ野にいるイスラエルの民の新しい世代に、人類の始まりやイスラエル民族の成り立ちを教えて、民族としての自覚を持たせるためでした。そして、創世記を書くときは、神から示されながら書いたのですが、それを書き終えた後、彼自身も経験したことを含めて書いたのが、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。
 そして今、礼拝説教では出エジプト記を取り上げて、最初から読み進めています。その中で、イスラエル民族がエジプトで4百年間、奴隷として過酷な重労働をさせられただけでなく、絶滅の危機にまでさらされたことを知りました。またこの危機の中で神に助けを求めたとき、神がモーセをエジプトに遣わし、10の災いをもってエジプトの神々を裁いたことを見てきました。
 そして、その最後の裁きによって、エジプト人の家のすべての初子が死に、エジプト王の長男も死んだとき、王はモーセを呼んで、イスラエルの民も家畜も皆、エジプトから出て行けと命じたのでした。ここまでが、出エジプト記の第1部とも言える1章~12章前半までの内容です。
⦿その次の第2部は、12章37節~18章まで書かれています。その内容は「エジプトからシナイ山に移動するイスラエル民族」の物語です。そして前回の礼拝で、すでにその最初に書かれているエジプト脱出の出来事を読みました。
 そのことから教えられた1つは、出エジプトの出来事は、作り話でも比喩でもなく歴史的出来事であることでした。また今1つは、その出来事が人間の行なう戦いによるのではなく「神の戦い」によって起こったことでした。
 そして、何と言っても教えられたことは、出エジプトは、エクソダスつまり脱出、解放という意味であって、イエス・キリストの死と復活によって私たちを罪から解放する出来事の印であるということでした。すなわち、イエス・キリストを救い主と信じる者にとって、死ぬことは、永遠の命に新しく生きるための脱出であり解放なのです。
⦿このことがより深められることを願って11月の永眠者記念礼拝に臨んだところ、すばらしい御言葉が与えられました。
 人間は皆、罪によって肉体と魂が対立して苦しんでいます。しかし、イエス・キリストを信じる信仰と恵みによって救われた者は、それまで対立していた肉体と魂が和解をします。和解をすると私たちは、魂の肉体という1つの体に回復されます。そして死がきたときには、平安のうちに死を迎えて、その魂は直ちに楽園に運ばれます。
 イエス・キリストと一緒に十字架につけられていた犯罪人が、「主イエスよ、私をおぼえていて下さい」と訴えたとき、イエスは<あなたは今日私と一緒に楽園にいる>と言われました。そのように、死ねば肉体は滅びますが、魂は楽園に運ばれます。しかし、それで終わらないのです。
 なぜなら、イエスも死んで楽園に行かれましたが、3日後に復活して弟子たちに現われました。すると彼らは、幽霊を見ていると恐れたので、イエスは「私の手や足を見なさい。私だ」と言われて食事をされました。イエスは、肉体と合体した栄光の体で現われたのです。
 聖書は、この復活したイエスを「死者の中からの初穂」と言っています。初穂であれば後に続くものがあります。それが私たちなのです。私たちもイエス・キリストを信じる者として、死んだら皆楽園に行きますが、やがて時が来ると、楽園にいる人たちの魂は皆、肉体と合体して栄光の体に復活し、永遠の御国に生きる者とされます。それがエクソダスなのです。
⦿エジプト脱出そのものについて、このような御言葉を永眠者記念礼拝で与えられたのですが、今日の聖書の個所は、エジプト脱出後のイスラエルの人々が、水が左右に分かれた海の中を通っていく物語です。映画『十戒』でも有名ですが、映画による先入観は捨てて聖書を忠実に読むために、その前後を少し詳しく細かく見ておきたいと思います。
 まず12:37~42が前回読んだ個所ですが、壮年男子だけでおよそ60万人のイスラエルの民が430年ぶりにエジプトを出るためにラメセスからスコトに向かいました。じつは、この続きは13章17節に飛びます。その間に過越祭と初子に関する掟が挿入されています。それは、<そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。>(12:38)とあることと深く関係しているからです。つまり、イスラエルの民だけでなく、エジプトに住んでいた種々雑多な人々も加わって脱出したのです。これについては後に問題となりますが、今はシナイ山に移動していく動きを追っていきたいと思います。
⦿そのために大切なことにふれておきたいと思います。それは、聖書の言葉を字義通りに読むということです。つまり、手紙や小説や新聞などを読むのと同じように、聖書も著者の意図に沿って読むことが求められているということです。
 例えば、<一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ60万人であった>という表現は、比喩や男性中心の性差別ではありません。現代の私たちであれば「60万世帯」と表現するのと同じです。これを読むイスラエル人にとっては当たり前の人数表現なのです。著者の意図は、神によっておよそ200万人もの民が解放されたという驚くべき奇跡を伝えることでした。
⦿しかし、これだけの大人数を率いてエジプトを脱出することは、モーセには不可能です。しかし、神がぴったりと彼から離れることはありませんでした。<その夜、主は、彼らを導き出すために寝ずの番をされた>とか、脱出路についても、<神は近道ではなく迂回させられた>とか<主が先頭に立って、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれた>と書いてあるとおりです。
 これは比喩ではありません。人々は文字通り神の栄光を見たのです。だからこそモーセは、敵の攻撃に備えて民の心を1つにしていきました。<主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した>とか<イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った>と書いているとおりです。
 モーセにとって「敵」とは、エジプトです。イスラエルを絶滅して神の栄光を妨げる世の力です。それは「主の戦い」によらなければ勝つことはできません。それゆえ今モーセは、すべてを主に委ねて、主が命じるとおりにイスラエルの民を進軍させ、スコトから荒野の道に迂回させてエタムで宿営しました。
⦿ところが神は意外なことを命じました。そして、それから起こることが14章1~31節に詳細に書かれています。これは、イスラエル民族にとってはもちろんモーセにとっても忘れることのできない出来事でした。私たちもその一部始終を読まねばならない個所です。
 神は、引き返してピ・ハヒロトの傍のバアル・ツェフォンの前の海辺に宿営するように命じ、またエジプト王が心を変えて追いかけてくることを告げました。事実、まもなくエジプト王自身が精鋭部隊を動員して、海辺を前に宿営している200万人もの人々に迫ってきました。
 それを見たイスラエルの人々は、主に叫び、モーセに叫びました。14:10~12を一緒に読みましょう。モーセは民に向かって答えました。14:13~14を一緒に読みましょう。じつに生々しい場面です。モーセはこれを思い出しながら書いたのです。
⦿そして、主はモーセに言われました。<なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。>
 モーセは、神の言葉を微塵も疑いませんでした。なぜなら、あのエジプトでの十の災いのときにも、神は、<杖を高く上げ、手を差し伸べよ>と命じられました。そして、その通りにすると、雹が降りました。いなごの大群が襲ってきました。暗闇の災いが起こりました。疑うこともあったでしょう。エジプト人からのさまざまな苦しみを受けたでしょう。同胞からも無視されたでしょう。それらさまざまな試煉を通して、神はモーセを訓練し、育て、今のモーセとなりました。だからこそ今、神はモーセに同じことを命じたのでした。
 しかし重要なのは、その前にイスラエルの人々を出発させるように神が命じておられることです。人々は、モーセが人々に出発するように命じたとき仰天しました。前は海しか見えないからです。しかしモーセは、神から命じられた通りに人々に伝えました。
 彼らは、エジプトの宮殿で主の戦いをしているモーセを知りません。その彼らが、今初めて、杖を高く上げ、手を差し伸べるモーセの姿を目の前で見ました。そして彼らは、今初めて神から与えられたモーセの権威を知り、主の戦いを知ることになります。
⦿ここで、いよいよ決定的なことが起こります。まさに神の栄光である火の柱と雲の柱に守られて、夜もすがら激しい東風で海を押し返される主のわざによって、海は乾いた地となり、水が分かれて右と左に壁のようになった中を、イスラエルの人々は進んでいきました。
 一方は、<イスラエルの部隊><エジプトの陣とイスラエルの陣><両軍は、一晩中、互いに近づかなかった>といずれも軍隊用語が使われていますが、無力で、およそ軍隊とは言えません。また一方は、<ファラオの馬、戦車、騎兵、エジプト軍>であって、まったく対照的です。しかし、モーセが再び神の命じるとおりに海に向かって手を差し伸べると、エジプト軍は海の藻屑となって消え去り、イスラエル民族は完全にエジプトから解放されたのでした。
⦿以上のことから私たちが教えられることは、第1に、海の水が分かれた出来事は、その前後のことも含めてすべて、作り話でも比喩でもなく、歴史的事実であることです。モーセは、<神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」>と神から示された言葉を書き記しています。この創世記1章6節の言葉が事実であることを、彼は今確信しました。なぜなら、目の前で海の水が分かれているからです。私たちはどうでしょうか。
 第2に、この出来事が人間の力や戦いによって起こったのではなくて、「神の戦い」によって起こったということです。
 そして第3に、この出来事がイエス・キリストの死と復活の出来事の印であるということです。雲の柱と火の柱という神の栄光を見たモーセとイスラエルの人々は、敵の攻撃に備えて心を1つにしました。敵とはエジプトであり、神の栄光を妨げる世の力です。
 イエス・キリストも2才のとき、エジプトから逃れました(マタイ2:14)。<「私は、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言が実現した>と書いてあります。このエジプトとはヘロデ王のことです。彼は東方から来た占星術師たちから神の子が生まれたことを知って、ベツレヘムの2才以下の男児を皆殺しにしました。これは悪魔の策略です。悪魔はたえず神の栄光を妨げるためにイスラエル民族を絶滅しようとし、何とかしてイエス・キリストを十字架からおろそうとし、荒れ野で空腹となったイエス・キリストに石をパンにさせようとしました。けれどもイエスはそれらを退けて、悪魔に勝利しました。これらのことを見るとき、海の中を通って行ったイスラエルの民の出来事は、イエス・キリストの福音の印であると言えます。
 私たちは今日、与えられた出エジプト記14章からひじょうに多くのことを学んだのではないでしょうか。とりわけ、今、無牧であるこの教会にとって、大切な数多くの御言葉が与えられたことを心から感謝したいと思います。

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