2026年1月18日 聖書:出エジプト記17章10~16節「主の御旗のもとに」 川本良明牧師

⦿今、礼拝では出エジプト記を読んでいて、17章まで来ました。これまでの流れを確認すると、神が驚くべき奇跡によってエジプトを脱出したイスラエル民族は、荒野に入り、シナイ山をめざして旅を続けているところです。彼らが最初に直面した困難は、飲み水でした。次は食糧でした。
 そのたびに指導者であるモーセに不平不満をぶつけ、そのたびにモーセは神に訴えました。すると神は、これに応えて水を与え、食糧それも天からのパン(マナ)を与えると同時に掟と法を示し、それを守るように命じられました。このことから私たちは、神がイスラエルの民を荒野に導かれたのは、彼らを訓練するためであることを知ったのでした。
⦿大きな流れで見ると、聖書の最初の5つの書は「モーセ五書」と呼ばれ、書いたのはモーセです。いや、正確に言えばモーセを通して神が書いた書です。五書の最後の書である申命記の最後はモーセの死が書かれているので、ここだけはちがいますが、それ以外は皆モーセが過去を振り返って書いているのです。彼は80才の時、シナイ山で神から召命を受け、奴隷となっているイスラエル民族をエジプトから解放するように命じられました。またその目的を示されました。
 すなわち、エジプトで400年もの間生活をしてきた彼らは、先祖からの言い伝えや割礼などを形式的に守りながらも神や神の業を忘れてしまっていました。しかし神は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を片時も忘れてはいないこと、そして神は、彼らをシナイ山まで導き、そこで聖なる祭司の国民にするという目的をモーセに示されたのです。
⦿聖書は2つの時間を語っています。1つは、私たちの時間です。神は天地創造において時間を造られました。私たちは、縦・横・高さ・時間という4次元の世界で生きています。時間を歴史や時代と言い換えてもいいですが、ともかく時間は、過去→現在→未来と流れていて、後戻りできないのが私たちの時間です。
 今1つは、神の時間です。かつて在し、今在し、永遠に在すとしか表現できませんが、私たちの4次元の世界を超えた多次元の世界におられる神は、過去も現在も未来をも超越した時間において生きて働いておられるのです。
⦿モーセは、自分の時間の中で人生を送っていました。しかし、シナイ山で栄光に輝く神に出会って神の時間にふれたとき、自分がどこから来てどこに向かっているかを知りました。
 これを私たちの時間で考えるならば、原因と結果で考えます。両親が若いときに出会って結婚し、母の胎に宿って産まれ、育てられ、教育を受け、環境の影響を受けながら今ここに生きているし、やがて終わりの時を迎えるというのが、自分の時間で考えることです。ところが、「他の誰でもなくなぜ自分がこんな目に遭うのか」という問いに対して、「両親がこうだったから、時代や環境がああだったから」と原因と結果で答えても、「それは分かる。しかしなぜ自分がこんな目に遭わねばならないのか」ということに対して何の解決にもなりません。
 しかし、神の時間にふれ、神との関係で自分を知るとき、今の自分には意味がある、今までたどってきたことにも意味がある、「なぜ自分はこんな目に遭うのか」にも意味を見出します。モーセはそのことを知ったのです。彼がこれまでの人生を振り返り、すべての歩みにおいて神が共におられて自分を導いておられたことを知ったことは、出エジプト記の初めの1~3章を読むだけで分かります。と同時に彼は、自分のことだけでなく、同胞であるイスラエル民族もまたどこから来てどこに向かっているかをも示されたのでした。
⦿そして今、神は、彼らをシナイ山へと導いて行かれます。そこでも神は、彼らを訓練されます。シンの荒野とシナイの荒野の間にあるレフィディムで宿営しましたが、飲み水が一滴もありませんでした。またもや人々はモーセに不平を言いました。モーセは<なぜ私と争うのか。なぜ主を試すのか>と言い、<私はこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも私を殺そうとしています>と主に訴えました。人々の不満は、今までになく激しく、暴徒化する気配がありました。
 これまですばらしい奇跡の恵みを体験し、また神から毎日天からのパンで養われながらも、なお主の臨在を信じられない民を見て、さすがにモーセは太字で、<主は我々の間におられるのかと試した=マサ、彼らは私と争った=メリバ>と記しています。
 モーセにとっても人々にとっても最悪の事態に陥ったそのとき、神はまたもやすばらしい恵みの奇跡を起こされました。<主はモーセに言われた。「長老数名を伴い、民の前を進め。ナイル川を打った杖を持って行くがよい。」>今から起こることの証人として長老数名を伴い、あの神の杖を持って人々の間を毅然として行け、と命じたのです。そして<見よ、私は岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことが出来る>と言われました。そしてモーセがその通りにすると、シナイ山の岩盤から水がほとばしり出たのでした。
⦿神は、彼らがどんなにかたくなな民であっても、彼らを祝福し、神に選ばれた民族にふさわしくするために守り、愛されるお方です。そればかりか、神は、こういう民をご自分の栄光を現わすわざに参加させられます。その恵みのわざを伝えているのが、先ほどお読みした聖書です。
 レフィディムに宿営しているときのことです。イスラエルの人々は初めて好戦的な敵に遭遇しました。これについてモーセは、<さて、アマレクが来てイスラエルと戦った>と書いています。そしてヨシュアを軍の長に立てて戦うように命じ、自分は神の杖を持って、丘の頂上に立つと告げました。次の日、下では戦いがあり、丘の上には、モーセとアロンとフルが立っていて、モーセが神の杖を持った手を上げていました。戦いは勝利し、最後にアマレクが絶滅するという恐ろしい預言を記して終わっています。
⦿アマレクとは、ヤコブの兄エサウの子孫です。モーセは、アマレクについて次のように書いています。<あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない>(申命記25:17~19)。
 エジプトでユダヤ民族は、絶滅の危機に曝されました。出エジプト後に初めて同じ危機に襲われたのがアマレクとの出会いでした。エジプトでは、神の一方的な介入で絶滅を免れましたが、今アマレクに対しては、イスラエル民族の戦いによって絶滅を免れることが起こったのです。
⦿戦いが勝利に終わった後、モーセは祭壇を築き、それを「主はわが旗」と名付けました。もちろん、主が勝利されたのであり、主が共におられてアマレクと戦われたので勝利したのです。しかし、丘の上で、神の杖を持ったモーセが手を下ろすと戦いは負け、手を上げると勝つことを経験したのも確かです。すなわち、その戦いに決定的な勝利をもたらしたのは、<神の杖を手に持ち、アロンとフルに支えられたモーセがその手を下げなかった>ことでした。それでモーセは、<彼らは主の旗にむかって手をあげた。主は代々アマレクと戦われる」と語ったのでした。
 このように、天地創造の全能なる神ご自身が働かれて勝利されるのですが、しかし神は、小さく無力にすぎないけれども辛抱強く主の旗を上げている人間をもご自分のわざに参加させられるのです。神は、上と下、神とイスラエルを結ぶことなしには、またヨシュアとその部下たちを抜きにしては、ご自分のわざをなさらないのです。
⦿このことから私たちは、すばらしい神の恵みを教えられます。教会は、また私たちは、何を信じ、何を告白しているかといえば、「この神を無視し、そのために自分を失い、破滅させてしまって、絶望的な有様になっている私たちを憐れんで、創り主である神は、人間イエスとなってこの世に来られ、このお方において、そういう悲惨な私たちの現実をご自分のものとされ、私たちの代わりに、御子を十字架につけて裁くほどにへりくだり、私たちに迫っている呪いと刑罰を身に負って下さって、呪いと刑罰を私たちから取り除いてくださった」ということです。これが、私たちが信じ告白している福音です。この福音を教会はこれまでずっと人々に伝えてきました。キリストの十字架の死によって「古いものは過ぎ去った」(Ⅱコリント5:17)のです。
 しかし、キリストの福音は、十字架の出来事を指し示すだけでは終わらないで、主の復活の事実をも指し示しています。つまり、「古いものは過ぎ去った」だけではなく、「見よ、すべてが新しくなった」と語っているのです。私たちは、もう古い存在ではなくて新しい存在なのです。神の敵ではなくて神の友であり、神の子どもなのです。もう罪人ではなくて義人であり、破滅した者ではなくて救われているのです。主イエス・キリストの十字架の死と甦えりは、そのことを私たちに告げているのです。
⦿しかし、なぜ人間の歴史はそれで終わらなかったのでしょうか。御子の十字架の死によって罪は滅び、人間の救いは完全に成し遂げられました。だから神は、御子を復活させられたのです。救いのために起こることは完全に起こって、もう終わったのです。だから人間の歴史は、主の復活で終わってもよかったはずです。しかし、もしもそうであれば、それは神の恵みといえるでしょうか。アブラハム・イサク・ヤコブに現われ、彼らと関わられた神は、人間を抜きにしたり、一方的に救いや恵みを押しつけたりなさるお方なのでしょうか。
 キリストの十字架の死と復活において、人間の救いのために起こるべきことは起こってしまった。だから、キリストが言われていたように、この世は終わり、最後の審判のために再臨してもよかったはずです。しかし実際には、そのようにはなりませんでした。時間は続き、歴史は続いています。キリストは十字架に死んだ後、復活して40日間、弟子たちの間に現われ、再び来ることを約束して昇天されました。復活の時と再臨の時の間に特別な時間が入って来たのです。
⦿復活の主が昇天された後、五旬祭の日に聖霊が降り、教会が誕生しました。復活の時と再臨の時との間に教会の時間が設けられました、つまり、今は教会の時なのです。神は、御子の十字架の死と甦えりにおいて恵みと救いを示されました。神は、そのような恵みと救いを受けた人間が、それを賛美し、喜び、感謝の声をあげる時を設けられたのです。神が、それほどまでに謙遜に、人間と共にあることを願っているのは、私たちに対する愛のためです。
 もちろん、人間の賛美も喜びも感謝の声もいつも貧弱です。またその数も少数です。しかし、それがどんなに少数で貧弱な声であっても、神は求めておられ、そのための時を設けられたし、設けておられるのです。ちょうど、神がアマレクとの戦いに勝利されながらも、ただモーセに主の御旗を掲げさせ、ヨシュアとイスラエルの民がそれを仰ぎ見ることで、その戦いに参加させられたようにです。しかし、その前に神が、シナイ山の岩盤から水を出し、彼らに飲み水を与えたことを忘れてはならないと思います。なぜなら、これこそ天からの水であり、キリストの生ける水であることを私たちに示しているからです。<渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。

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