2026年2月1日 聖書:出エジプト記18章8節~12節「主の証人として生きる」川本良明牧師

⦿只今読まれた出エジプト記は、アブラハムの子孫がイスラエル民族として形造られていく、いわば民族の誕生物語であると言えます。全部で40章あって3部から成っています。第1部はエジプトで苦しむイスラエル民族が書かれています。第2部はエジプトを脱出したおよそ2百万の人々のシナイ山に向けた荒野の旅が書かれ、第3部はシナイ山で神と契約を結ぶことが書かれています。そして、これまで礼拝において17章まで読んできました。
 第1部の「エジプトでの苦しみ」とは、民族絶滅の危機に遭ったということです。しかし神は、エジプト帝国を支えていたすべての神々を裁き、海を乾いた地に変えて彼らを向こう岸に渡らせた後、エジプト軍を海のもくずとすることで、イスラエルの民を絶滅の危機から救われたのでした。また第2部の荒野の旅では、水や食糧の危機に遭いました。しかし神は、今後40年間、天からのパンを毎日与え、また厚い岩盤から飲み水をもたらしました。
⦿ところが荒野においても、彼らは民族存亡の危機に遭いました。好戦的なアマレク人に襲われたのです。エジプトを出たばかりの彼らは、戦ったこともなく、無防備の状態でした。しかし神は、ヨシュアを立て、モーセを神の印として戦うことを命じ、1日でこれを撃退しました。これが17章の後半にあり、私たちは前回の礼拝でここを読みました。
 その礼拝後に大変良い質問を受けました。これまで聖書の言葉通りに読んできた個所が、私の語ったこととちがうために起こった当然の疑問です。それは17章最後の16節で、<彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は代々アマレクと戦われる>とあります。じつはその前半の、<彼らは主の御座に背いて手を上げた>は、解釈が大変難しい個所とされてきました。それで口語訳、新改訳、英語訳など聖書によって文章がまちまちです。またヘブライ語の原文を見ると、<たとい彼らが主の御座に向かって手を上げようとも>とあり、新共同訳聖書に近いと言えます。
 そこで私の解釈ですが、アマレクが襲ってきたとき、モーセはヨシュアに戦うように命じ、明日、自分は神の杖を持って丘の上に立つと告げました。次の日、モーセが神の杖を上げると優勢となり、下げると劣勢になりました。それでアロンとフルが彼の手を支えて下げなかったので戦いは勝利に終わりました。そのことからモーセは、祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けました。神の杖は軍旗であり、主を意味します。主が戦われたから勝利したことを記念して祭壇を築いたのです。それで私は、<彼らは主の旗にむかって手を上げた>と解釈したわけです。
⦿解釈はともかく、大切なことは、実際は神ご自身が戦って勝利しているのですが、しかし神は、貧しく無力でありながらも辛抱強く主に向かって手を上げている人間を抜きにして、ご自分のわざをされることはないということです。
 エジプトにおいても荒野においても、神はアブラハムと結んだ無条件契約を片時も忘れないで、イスラエル民族を愛と恵みによって導かれました。その導かれる目的は、彼らを聖なる祭司の国民にし、約束の乳と蜜の流れるカナンの地に入らせることでした。シナイ山に向かう荒野の旅で、神は彼らに様々な試練を与えて訓練されました。そして今、シンの荒野とシナイの荒野の間のレフィディムで、彼らは民族として整えられることになります。
⦿まさにそのとき、モーセのしゅうとでミディアンの祭司エトロが訪問してきました。これもレフィディムでの出来事です。ミディアンは、アブラハムとその側女ケトラとの間に産まれた子供です(創世記25:2)。その子孫はシナイ半島の向かい側のアラビア半島の西岸の地域に住んでいた遊牧民で、祭司が統率していました。祭司エトロは、エジプトから逃亡してきたモーセを保護し、そこにとどまる決意をしたモーセを娘ツィポラの婿として迎えて40年間、共に過ごした人です。そのエトロが今、娘と2人の孫を連れて来たのです。この18章は、前半と後半の内容が違うので、今日は前半だけを見てみたいと思います。
 <モーセが先に帰していた>とあるのは、4章から推測できます。モーセは、神からの召命を受けたことをしゅうとには話さず、妻と2人の息子を連れてエジプトに向かいました。しかし、途中で妻子は実家に戻っていたようです。その後、<神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた>エトロは、おどろきと喜びと共に人知を越えた働きを感じたのではないかと思います。なぜなら、18章には「モーセのしゅうと」が7回、「しゅうと」が6回、合計13回も出てくるからです。おそらくミディアンにいたころは、「エトロの婿モーセ」と呼ばれていたはずです。それが今は、「モーセのしゅうとエトロ」と逆転しているからです。
⦿<モーセはしゅうとに、主がイスラエルのためにファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせた>(8節)とあり、しゅうとに語るモーセの姿がありありと浮かんできます。しかし、彼は自分の人生経験を語っているのではありません。主の証人としての証しをしていることに注意したいと思います。
 それに対してエトロは、モーセの言葉に耳を傾け、一緒に喜び、一緒に感動して、神をたたえています。<喜ぶ者と共に喜びなさい><愛には偽りがあってはなりません。兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい>というパウロの言葉が聞こえてきます。互いに愛し合うとは、一般論ではありません。世の中の不幸な人や苦しむ人を覚え、祈ることも大切ですが、目の前にいる兄弟姉妹に目を向け、耳を傾け、真剣に聞き、相手の言葉をさえぎらないで、共に喜び、共に苦しみ、共に感じることです。それがエトロのモーセに対する関係でした。そういう関係であるとき、そこで何が起こるのでしょうか。
⦿エトロは、イスラエル人ではなく異邦人です。その彼がモーセの証しを聞いて、彼の内に起こったのは信仰の告白でした。<主をたたえよ>は、彼の主への告白です。また、<主はすべての神々にまさって偉大>という言葉は、十戒の中の第1戒と同じ告白です。そして、祭司である彼は、焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげました。それからアロンとイスラエルを代表する長老たちも皆来ると、エトロと共に神の御前でいけにえの食事にあずかりました。
 これは単なる食事ではありません。いけにえを献げ、神の御前でいけにえの食事をしたということは、神の前でエトロを含めて契約が結ばれたことを示すものです。エトロは、出エジプトの神を告白して、神の民の一員となったのです。これは新約時代の聖餐式の型です。私たちも聖餐式において新しい契約を結び、神の民の一員であることを再確認しているのです。ちなみにエトロの子孫もイスラエルの民となっていることが、この後の聖書の中に出て来ます。
⦿このことから私たちは、これからの私たちの歩みにとってすばらしいことが示されていることを受け止めたいと思います。なぜなら、これまで読んできた出エジプト記が語っていることは、教会にまた教会に属する一人ひとりに語っていることだからです。
 聖書の言葉は、真空状態の中で読まれるものではなく、現実の生活の中で読まれることは十分にお分かりだと思います。しかし、「現実の生活」とはどういうことなのでしょうか。これもまた抽象的なことになっていないでしょうか。今日礼拝後に臨時総会が開かれますが、教会で行なっているいろんなことは、決して抽象的な事柄ではありません。しかし、この世の物差しで考え判断することも大切ですが、それが「現実的なこと」であり、神を見上げ、見えない事実を確認することを「抽象的なこと」にしないように気をつけねばならないと思うのです。
⦿先日の臨時役員会の議事は代務者の件でした。「代務者よりも主任担任教師を」との願いは強く持ちながらもできない第1の理由は、「謝儀が出せる現状ではない」ということでした。これは、見方を変えるならば、「あの教会に行けば謝儀が安定してもらえる」という牧師を求めていることになります。そんな牧師を迎えてどんな教会を建てようとするのでしょうか。
 謝儀が出せるようになるためには、まず謝儀のことを考えないことです。謝儀や献金や会計の事柄を軽んじているのではありません。むしろそれらを通して教会は、教会にとって中心的、決定的なことが求められているのです。あの教会にはイエス・キリストが生きている。キリストを実感する。背負っている重荷が軽くなる。福音が分かる。キリストにある兄弟姉妹の交わりが感じられる。そういう教会を求めることは「抽象的」でしょうか。
⦿現在ほとんどの教会は、教会員数や献金額や牧師の減少の現状を統計的に分析し、人集めのためにいろんなことを熱心に行なっています。それが大切なことは、先ほど知ったばかりです。貧弱で無力な、このような私たちを、神は用いて下さることを感謝したいと思います。なぜなら、今、人を集める努力ができるのは、神の恵みのお陰だからです。
 しかし福音書には、公の活動を始められたイエスが、<ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた>とき、人々がぞくぞくと集まってきたことが書かれています。教会がキリストの名にふさわしい教会であれば、自ずから人々が集まってくるのではないでしょうか。私たちはそろそろ「集める教会」ではなく「集まる教会」をめざした方がいいのではないでしょうか。しかもそれは、荷は軽く、軽やかな喜びに満ちた奉仕であるはずです。なぜなら、神が人を集められるからです。互いに賜物を生かし、分担し合い、自由にものが言える教会になるために、何よりも御言葉に耳を傾けて、共に神に養われていきたいと願います。

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