2026年3月15日 聖書:ヘブライ人への手紙11章31~40節「希望に生きる」川本良明牧師

⦿聖書は、キリストの降誕を境にして旧約聖書と新約聖書に分かれています。降誕前に書かれた旧約聖書は、神が約束されたメシアが来られるのを待っています。新約聖書は、約束どおり来られたメシア(キリスト)が、十字架に死んで墓に葬られ、3日目に復活した後、天に昇り、やがて再び来られるのを待っています。ですから、<メシア(キリスト)を待つ>ということにおいては、旧約聖書も新約聖書も同じです。
 また「待つ」というのは、神に対する信頼があるからです。そして来られたとき、約束されたことをまちがいなく完成してくださるという希望があるからです。それに、キリストを心から慕い、キリストを愛するからこそ待つのです。ですから、旧約聖書も新約聖書も、同じ神に信頼し、同じ神を望み、同じ神を愛し慕っているのです。
⦿しかし私たちは、旧約聖書が語っている神が、すでにキリストとして来られたことを知っています。そしてキリストは、十字架につけられて死んで、墓に葬られました。ところが3日目に甦えって、弟子たちに現われて、<神は、すべての人間の罪を贖いました。そのことを宣言するために、私を甦えらせました>と言われました。そして、さらに、<終わりの日にすべてを完成させるために、私は神から遣わされて再びこの世に来ます。>と約束し、<それまであなた方は、キリストの福音をすべての人に宣べ伝えるために出て行きなさい>と命じて昇天されました。
 代々の教会は、このキリストの言葉を信じ、キリストの福音を宣べ伝えてきました。そして、キリストが再臨されて、すべてを完成される日が来るのを待っています。このキリスト再臨の希望ということにおいては、新約聖書と旧約聖書は違うのです。
⦿新約聖書の中でも、信仰と一つである希望を最も強く表現しているのが、先ほど司会者がお読みしたヘブライ人の手紙11章です。その1節で、<信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。>と書いています。そして4節から31節まで、<信仰によって>という言葉が18回も出てきますが、アベルに始まってエノク、ノアなどヨシュアまで、旧約聖書が伝えている信仰に生きた昔の証人たちを挙げた後、<これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りません>と言って、彼らの生き様を簡単に書いています。
 ギデオンから預言者たちまでの人々は、約束の地カナンに定住した時代の人たちです。士師記、サムエル記、列王記、預言書に書かれていますが、モーセの律法と幕屋を中心に生活する彼らにとって、農業と偶像崇拝を中心とするカナンでの生活は、じつに苛酷な歴史でありました。
⦿じつは、このヘブライ人への手紙は、著者も受取人も不明ですが、著者は、旧約聖書やユダヤ人の生活習慣についておどろくほど詳しい人で、何度も受取人に「不信仰に陥らないように」と勧告しています。また受取人は、ユダヤ人信者で、同胞からの迫害を受けたり、試練に遭って、もとのユダヤ教に戻ろうとしている人たちです。そうしたクリスチャンたちを励ますために書かれている手紙ですので、現代の私たちにとって大変教えられる書簡です。
 著者は、手紙の最初の部分で、ユダヤ人なら誰でも知っているし尊敬している預言者や天使あるいはモーセやアロン、そして祭司を取り上げて、確かにこれらは大切です、しかし、キリストはこれらのすべてよりもはるかに優れたお方です。それなのにあなた方は、キリストを捨てて、このお方を信じる信仰により恵みによって救われたことよりも、モーセの律法を行なうことで神に義と認められようとしています。しかし、そうなれば再び罪の奴隷に戻ることになりますよ、と警告し、信仰に生きた先祖たちを取り上げて、励ましているのです。
⦿それでもなお、希望が見えなくなっている彼らに対して著者は、33節以下で預言者エリヤやエリシャ、ダニエルのことを述べています。<死んだ身内を生き返らせてもらいました>とは、子供が死んで悲しんでいる女性を見て、その子供を生き返らせたエリヤとエリシャのことであり、<獅子の口をふさぎ>とは、獅子の洞窟に投げ込まれたが天使に守られて襲われなかったダニエルのことであり、また<燃え盛る火を消し>とは、火の中に入れられながらも天使に守られて火の中を歩き回った3人のユダヤ人のことです。
 そして35節後半からは、旧約聖書と新約聖書の間の中間時代に起こった信仰による忍耐と殉教の出来事にまでふれて、<この人たちは皆、信仰によって救われながらも、約束されたものを手に入れませんでした。>と書いています。手に入れなかった<約束されたもの>とは、<神は、私たちのために、さらにまさったものを計画してくださった>と続けて書いているように、キリストご自身のことです。私たちは、キリストと聞くと、その名前に属している神の恵みとか救いあるいは癒し、奇跡のわざ、愛のわざなどを考えやすいですが、そうではなく、イエス・キリストご自身こそが約束されたそのものなのです。
⦿ですから著者は、すぐに12章で、<こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。>と語っているのです。そして著者は、遠い昔のアベルから新約時代に近い中間時代まで、信仰と希望と愛に生きた人々を<おびただしい証人の群れ>と呼んでいます。
 <証人>とは、もちろん神について証言する人のことです。人間が神について証言することが起こるのは、神に畏敬の念を持つときです。畏敬の念とは、自分の主人に対して僕となり、しっかりと主人に目を向けて、自分の計画を実行するのではなく主人の命令を待つことです。神の命令に目を向けるときに証言が起こります。そして、<信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、忍耐強く走り抜こう>とあるように、イエスこそ私たちの神であり主人です。ですから、イエスに対する畏敬の念を持ち、イエスの僕となり、自分の思い、計画、主義を横に置いて、まずはイエスに目を向けて、その御言葉に聞き従うことが証人となることです。
⦿イエスの証人となることで教えられるのは、洗礼者ヨハネです。彼は、イエスを見て、<見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ>(ヨハネ1:29)と証言し、自分のことではなく、ひたすらイエスに目を向け、イエスを指し示すことに徹していました。彼は、人々に、<あの方は栄え、私は衰えねばならない>(ヨハネ3:30)と語っています。彼こそイエスの証人だと思います。
 イエスの証人であるとは、自分の主義や思いや感情や計画や要求などを持って立っているのではありません。イエスの証人とは、神が言われたこと、言われるであろうことを人々に話すために立たされるという、じつにきびしい服従を求められているのです。ですから教会は、世の中のためのアイデアや指針あるいは政治や経済のあるべき計画を持って立っているのではなく、ただ一冊の聖書を持って立っているし、イエスを証言する証人の群れとして建てられているのです。
⦿この聖書を解き明かすのが説教ですが、説教には主題説教と講解説教があります。主題説教は、今日の説教のように、「希望に生きる」といったテーマを立てて語ります。また講解説教は、聖書のある書巻を順序立てて語ります。今私が出エジプト記を説教しているのは、講解説教なのです。ところが聖書は、手紙や小説と同じように著者の思いや意図に沿って読むことが必要です。しかしまた聖書は、手紙や小説とちがって、天地創造の父なる神の言葉です。と言っても天使の言葉ではありません。言葉や習慣や伝統といった環境の中で生活している人間を用いて、つまり、ヘブライ語を語り、習慣や伝統の中で生きているイスラエル人を用いて神が書いたものです。
 ですから聖書は、著者の思いや意図に沿って読むことと、直接自分に語りかける神の言葉として、神の御心に沿って読むことが大切なのです。だから、主題説教のように、直接神からの語りかけとして聞いて語ることも、また講解説教のように、その言葉が書かれた文脈や著者の意図を正しく理解して読んで語ることも、どっちも大切なのです。しかしいずれにせよ、イエスを指し示すことが説教の役割です。しかも主御自身が、こんな私たちを主の証人に立てて、ご自分を証しされるのです。本当に感謝であります。神は私たちに、イエスに対する畏敬の念を持って主の証人になることを求めておられます。ですから、ぜひとも、この神の真実と愛に応えていく教会でありたいと願うものです。神が信仰を与え、希望に生きる者としてくださいます。そのことを信じて聖書を読み、感謝しながら御言葉に聞き従っていきたいと思います。

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