2023年12月3日 聖書: マルコによる福音書 3章20~21節・31~35節 「真の親のもとで生きる」川本良明牧師

◎12月に入り、イエスの誕生を祝うクリスマスが近づいています。しかし福音書は、その誕生から公の活動を始める30才までの彼についてはまったく書いていません。12才の時のちょっとした小話が1つありますが、これも<両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった>とあるように、ガリラヤのナザレ村で育った以外は全く無名の人でした。
 やがて家族と別れ、故郷を後にしたのですが、まもなく伝わってきた彼についての風評は、家族やその地域の人たちに不安と身の危険さえ感じさせるものでした。先ほどお読みした<身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た>とある「取り押さえる」とは「逮捕する」つまりイエスがゲツセマネで逮捕されたと同じ言葉です。理由は<「あの男は気が変になっている」と言われていたから>でした。また、<イエスの母と兄弟たちが来た>というのも、イエスを説得して家に戻そうということだったと思います。
◎ところがイエスに会いに来た彼の家族が見た光景はどういうものであったか。私たちも聖書から想像できます。カファルナウムのペトロの家の周りには群衆がイエスに会おうと犇めいています。またエルサレムから来たと分かる軽蔑と敵意を丸出しにした律法学者たちがおり、彼らを恐れの目で見ているイエスの身内たちが少し離れた所にいます。
 そしてイエスの12人の弟子たちが<食事をする暇もないほどに>イエスに会おうとする人々の世話をしており、イエスが、さまざまな病人を癒し、重い皮膚病の人を清め、悪霊に憑かれた人たちから悪霊を追い出すかたわら罪の赦しと恵みの言葉を語り、律法学者たちとはまるで違って、御自分の権威をもって人々に教えていました。
◎今述べた人々を見ると、すでにイエスについての評価が分かれていたことが分かります。今の自分の苦しみを取り除いてくれるありがたいお方であると思う人、そんな力を興味深く見ている人、その異常な力に危険を感じている人がいました。
 またエルサレムから来た学者たちがこれに当たると思いますが、イエスを、神の律法を破り、罪人や取税人たちと食事をし、公然と自分を神と等しいと語っている最重要な危険人物と見ている人たち、こうした警察まがいの人々からもイエスからも距離を置いて眺めている人々、またごく少数ですが、彼の御許に座って、熱心にその教えを聞き、その権威を認めて彼を預言者のように尊敬している人々などさまざまでした。
◎しかし多様な評価に分かれてはいても共通していることがありました。それは、イエスはいったい何者であるのか皆目分からないでいるということです。
 確かにイエスは、律法学者たちと違って、その教えには権威がありました。また悪霊を追い出す一方で、治りたい一心で近づく人には惜しみなく癒しの力を注いでいました。ところが彼は、癒やされた人には固く口止めし、御自分を隠そうとしています。
 ですから彼の身近にいた弟子たちをはじめ人々は皆、いったいこの方は何者なのか。どこから来たのか。全く同じユダヤ人であり、普通の身なりをした人間であるのに、その教えも悪霊もおびえる権威を持ち、病を癒やし、奇跡を起こすのを見て、おどろきと恐れと衝撃を受けながら、ますます謎を深めていったのではないかと思います。
◎ところが当時の指導者たちは、イエスが罪の赦しの権威を示し、安息日に病を癒やすなど神の掟を公然と破っていることは許せませんでした。しかも彼は、<私は安息日の主である>と言いました。ここに至って彼らは彼を殺す決意を固めたのでした。
 そして皮肉にも彼らにイエス殺害を正当化させたのは悪霊に憑かれた人々でした。悪霊はイエスを見ると、<ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ>と叫びました。まさに悪霊たちは、イエスが何者であるかを正しくとらえていたのです。指導者たちはこれに注目したのです。
 先ほどお読みした<「あの男は気が変になっている」と言われていた。>に続く個所で、彼らは、<あの男は悪霊の頭ベルゼブルであり、その力で悪霊を追い出しているのだ>と断言して、確信をもってイエスを攻撃しています。そして彼らは、<彼は汚れた霊にとりつかれている>というデマを飛ばしました。そのために家族も身内もイエスの逮捕に乗り出すほどに恐怖に追い込まれたのでした。
◎これに対してイエスは、誹謗中傷する彼らを<呼び寄せ>ました。そして、<どうして、サタンがサタンを追い出すことができるのか。国でも家でも内輪もめすれば自滅するのではないか>と語り、続けて、<まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。>つまり、家財道具を家に閉じ込めているように、悪霊はその力で人を罪と死の奴隷にしている。その人を悪霊から解放するには、まず悪霊を縛りあげなければならない。私が悪霊を追い出しているのは、私に悪霊よりもはるかに強い力があることの証しではないか。そのように語って彼らの攻撃を打ち砕いたのでした。
 そしてイエスは、<はっきり言っておく>と告げました。これは、<アーメン、あなたがたに告げる>という非常におごそかな言葉です。この言葉をもってイエスは、<人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う>と人々に語りかけたのでした。
◎今ここで、非常に激しい戦闘が行われていることにお気づきでしょうか。イエスとサタンとの戦いは、同時にサタンに支配されている当時の指導者たちとの戦いでもあって、人々を彼らの力から解放しようとしてイエスは戦われているのです。
 イエスは公の生涯を始めたとき、洗礼を受けて、その後、聖霊に導かれて荒れ野でサタンの誘惑を受け、それを退けました。しかし、サタンの攻撃は、その後もずっと止むことはありませんでした。それに対して神の身分を捨てて卑しい身分となり、私たちと同じ人間となった神の子イエスは、私たちを罪と死の奴隷状態から解放するためにへりくだって、それも十字架の死に至るまで従順でありました。
 このイエスを神は復活させられました。最後まで罪を犯さず、私たちの代わりに神に裁かれ、神に捨てられ、死と虚無と混沌へと身を献げて下さった神の子イエスを、神は復活させて、私たちの罪を滅ぼし、死に勝利されたのでした。
◎このイエスを家に連れ戻そうとしてやって来た彼の母と兄弟たちを見るとき、イエスとの隔たりはあまりにも大きいと思わざるを得ません。家族は皆風評に惑わされてしまい、30年間彼らに仕えてきたイエスとの信頼関係は吹っ飛んでいました。
 聖書は、血縁家族の中には暴力や対立の危険があるとはっきりと見ています。今日、精神障害や発達障害や認知症をはじめさまざまな心理的あるいは精神的な領域のことが語られています。その苦悩と悲惨な現実の中で、心の病を扱う病院は患者を増やしています。そして強制入院あるいは薬漬けで対処している病院が多いのが現状です。
 精神科は決して「完治する」とは言いません。外科や内科など他の科であれば、治らなかったら責任を追及されますが、精神科はそれがない。なぜなら「安定か不安定か」を診察するのであって、いわば問診で本人や家族から聞きとったことをもとに、これまでの背景や環境を考えて、自分の手許にあるいろんな症状の項目に当てはめて診断を下します。そして当てはまらなければ「適応障害」とされます。
◎今や障害の要因は家族にあると言われています。ひと頃、親教育という言葉がはやりました。「それでも親か!」と言えば言うほど「俺はあんたの子どもだ」と言ってるわけで、親から離れることができない。親も子も互いに離れられずに傷つけ合っています。そこで自立が必要だと言われますが、しかし自立するにはどうすればいいのでしょうか。
 そこで「なぜこうなのか」と指摘するのではなく、「どうしたらよいか」とまず考えて、親は子供を、子供は親を、いったん突き放して、互いに相手を一人の自分と同じように弱い人間として見る目が必要ではないかと以前は思っていたし、語っていました。しかし今は、親が子供から、また子供が親から本当に自立できるのは、血縁の親子の関係から天地の創造主である全能の神を自分たちの親に替える時ではないかと思っています。
 その目に見えない全能の神が目に見える姿で来られたのがイエス・キリストであって、このお方の言葉を信じてその招きに応えるとき、私たちは神を親とすることが許され、また私たちは神の子供となるのです。<このキリストによって、私たちは、聖霊に結ばれて御父に近づくことができます。従って、あながたがは聖なる民に属する者、神の家族なのです>(エフェソ2:18~19)とあります。
◎<私の母、私の兄弟とはだれか。見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ>と語るイエスの言葉に心から耳を傾けたいと思います。私たちは、聖霊の力にあずかって肉の親の子供から霊の親の子供になることが約束されています。
 イエスは家族についてすばらしいたとえ話を語られています。それは「放蕩息子のたとえ話」で、ルカ福音書15章11節以下にあります。放蕩息子が帰って来るのをひたすら待っている父親こそ真の父としてイエスは描いています。放蕩息子が放蕩の限りを尽くし、行き詰まったとき、お父さんの所に帰ろうと思い立ちます。「帰ったらお父さんに、自分はもう息子と呼ばれる資格はありません。あなたの召し使いにしてくださいと言おう」と決心して帰って来ます。ところが、はるか遠くに息子が帰って来る姿を見たとき、お父さんは走り寄って彼を抱きしめると、息子が「お父さん、私はもうあなたの息子とは言えません」と、準備していた言葉を言いかけるのをさえぎって、召し使いに「急いで息子に一張羅の服を着せ、手に指輪をはめさせなさい。死んでいた息子が生き返ったからだ。」と言って指示します。指輪を与えるということは本当の子供と認めるということです。こうして帰って来た息子のために宴会を開き喜ぶのです。
 このたとえ話によって、イエスは、私が信じている、私が示している、あなたがたが知っている天の父は、あなたがたの真の父なのです、と語っているのです。まさに私たちは、放蕩息子ではないでしょうか。この私たちも真の父のもとで生活することが許されていることを感謝したいと思うのです。そして最後に一言、神の家族になることによって、じつは、それまでの破綻していた、行き詰まっていた、もうめちゃくちゃな肉の家族も回復されるということを覚えていたいと思います。

聖書のお話