2024年4月7日 聖書:マタイによる福音書28章16~20節「召しと召命③」川本良明牧師

◎キリスト教のシンボルが十字架になったのは、教会の誕生から約400年経ってからです。それまで「魚」がシンボルだったのは、漁師など庶民の階層が多かったからではないかと思います。ガリラヤ湖の魚を捕る漁師たちは、権力の過酷な支配によって飢えと搾取を体で知っていました。漁獲物も税を課せられていて、大漁になれば取税人の容赦ない取り立てが待っていたのです。
 ガリラヤ地方における社会的な各階層間の対立や経済格差と病気や身体的・精神的障害による苦しみは、ローマ帝国に支配されるイスラエル全体の縮図でありました。これに対して聖書は、<ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ>という預言の言葉をもって、福音すなわち神のよきおとずれを告げていました。
◎その預言の時が満ちて、見ることも知ることもできない天地創造の神は、イエス・キリストとなってイスラエル民族の一人として生まれ、ガリラヤ地方で育ち、およそ30才になって公の活動を始められました。ところが彼は、わずか3年足らずで人々の妬みと憎しみを受けて十字架にかけられて殺されてしまいました。何一つ悪いことをしてないばかりか、彼のことを伝える4つの福音書を見ると、愛の言葉と愛の行動が1つである、つまり一言にして言えば、彼は人を仕えさせるのではなく、身を低くして仕えるお方でした。
◎それでは神は何のためにこの世に来られたのか。それは私たちを愛するがゆえに、私たちの代わりに神に裁かれるためでした。私たちの創造主であり命を与えている神を土台としないで生きることを罪と言います。しかし、罪と言われてもピンとこないと思いますが、それではなぜ私たちは、親と子、夫と妻、あるいは人間関係などいろんなことでもめるのでしょうか。それは神を主人としないで自分が主人となっているからです。
 本来ならば神が上で自分は下なのに、神を下にして自己中心になって、必要以上にいろんなものを欲しがっています。物ばかりか時間や心まで自分のものにしています。欲がはらむと罪を生み、罪が熟して死を生みます。この死とは、神の作品として生きる機能が働かないことです。つまり、体は動いていても神と交わる魂が死んでいることです。生ける屍である私たちは、神から罪を裁かれ、捨てられても仕方のない、役立たずの存在になっています。
 ところがこのような私たちのために、イエス・キリストは、私たちの代わりに神に裁かれました。それが十字架の死であって、しかも彼は十字架の上で、<わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか>と叫んで息を引き取られました。つまり、神の御子イエス・キリストは、私たちのために、神からも捨てられたのです。
◎ところが神は、このイエスを死から復活させられて、御子イエスの死によって、私たちに対する裁きを完全に終えたことを示されました。そうであれば、復活の朝に終わりのラッパが鳴ってもよかったのではないでしょうか。なぜなら、神の子の死によって罪の世界に対する審判が下ったのですから、世界が終わり、時間が終わってもよかったのす。
 ところが使徒言行録には、<イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された>(1:3)と書かれています。これは初代教会の証言です。イエスは復活して新しい歴史を造り出していて、時間は終わらなかったのです。しかもこの後イエスは神のもとに昇天しますが、その時2人の天使が現われて、<あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる>と弟子たちに告げています。
◎そのことはイエスも生前、度々語っています。例えばイエスが捕らえられて大祭司の前に立たされた時、大祭司がイエスに、「お前はメシアなのか」と尋ねると、イエスは、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)と告げています。イエスは十字架上で神による罪の裁きを終えて復活しましたが、神は世界を終わらせず、新しい歴史を始められているのです。
 じつは私たちは、イエスが復活して再び世界に来られた時からイエスが同じ姿で再び来られる終わりの時までの間を生きているのです。これを中間の時と言います。このことを見すえながら、今日の聖書の個所を18節からもう一度お読みしたいと思います。<私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。>
◎イエスは、出ていって、すべての民を弟子にし、洗礼を授け、教えるように命じていますが、これこそ派遣の召しであります。神から召しを受けている人は、人間的に知恵ある者や能力ある者や家柄のよい者よりも、愚かで弱く、身分が低く、世の中から軽んじられている者が大部分です。それはなぜかというと、そのことによって神の栄光が現われるためだからです。神は、自分の力では全く良いことができない、そのような人を用いて、ご自分の栄光を現わされるのです。また召しを受けた人は、召しを受けた場所で、いつでも新しい召しに備えて誠実に生きているならば、これまでの人生がいっそう豊かに生かされることになります。
 さらに神から召しを受けた人は、一段一段と階段を登っていくように導かれていきます。召しを受けた時は、情けない、みすぼらしく、弱い者ですが、神は召した者を責任を持って導いて行かれます。その人の物差しを神が次々と打ち砕いていきながら、神の愛に包まれて一切をキリストに委ねる者と変えられていく、それが召しの特徴です。あのペトロが、イエスを3度知らないと言ったのに対してイエスは三度、「私の羊を飼いなさい」と言われています。失敗し、絶望し、孤独に泣くペトロをじっと見ていたイエスは、決して忘れず、三度任命しています。このようにペトロは、やり直せると確信し、前に歩み出す力を与えられたのです。
◎派遣の召しを受けた弟子たちは、具体的に伝道命令を受けたのですが、聖書は、<しかし、疑う者もいた>と書いてあります。イエスの命令にひるんでいたのです。かつて彼らは、福音を宣べ伝えるために2人1組で派遣されたことがありました。あの時は喜んで行ったのですが、それはイエスが生きておられたからで、今は尻込みするばかりです。
 その彼らにイエスは、<私は天と地の一切の権能を授かっている>と言われます。十字架の死によってすべてを成し遂げて復活され、まもなく天に挙げられて神の右に座して、どんなことがあっても妨げられないこのお方が、彼らを用いようとされているのです。
◎さらにイエスは、<私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>と約束の言葉を語られています。じつはこの言葉をイエスは、<あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる>(使徒1:8)と具体的に語っています。
 そして昇天されてから十日後、約束どおり聖霊が降って、弟子たちは聖霊に覆われました。そして彼らは力強く語り始めました。それは使徒言行録2章に書かれているペンテコステの出来事です。先ほどお読みしたのはその一場面であって、聖霊を受けたペトロが集まってきた群衆に向かって、<皆さん、あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させられました。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたが今見聞きしている通りです>と語っています。
 このことから分かるのは、実際の伝道活動は、聖霊が降って教会が生まれた時から始まったということです。教会の歩みは、神の「召し」によって新しい道へと導かれていきます。そして私たちには予想できないほど祝福に満ちた道が開かれていくのです。
◎『星の王子さま』を書いたサンテグジュペリは、「愛し合うとは、互いに見つめ合うことではなく、二人が一つの同じ方向を見つめることである」という美しい言葉を残しています。私はこの言葉を聞いて、「互いに見つめ合うことではなく」とはじつに鋭い指摘で、たしかに互いに見つめ合うだけでは、相手の欠点ばかりが目について愛は生まれない。本当は愛し合いたいのだけれど、つい傷つけ合ってしまう。しかし、二人が一つの同じ方向、つまり神を、天を見つめる時、いつの間にか二人の間に愛が生まれるのであり、ここに希望があると以前は読んでいました。
 しかし、今は、少し違います。この二人とは、建前の自分と神の作品である本音の自分のことではないかと思います。本当は自分は△なのに、親や周りの者から○になれと言われきて、一生懸命にがんばってきて、それが本当の自分だと思ってきたが、本当は寂しく、孤独で、のろまで不器用で不安で震えている自分をいつも叩いて、ちょうど水面をスーッと泳いでいる鴨が水面下では必死で水かきをしているように、がんばれ、がんばれと鞭打って、ストレスがたまり、自分で自分を追いつめて、いろんな障害を抱え込んでしまっているのではないでしょうか。
 けれども、そういう私たちが教会に来て、私の造り主である神が人となって来られて、私のために十字架に死んで、聖霊として私の内に住んでくださって、そのような自分を、「それでいいんだよ」と受け入れてくれてくださっていることを知った時、建前の自分も本音の自分も、どちらも超えている天の神様の方を見つめた時、愛が生まれたのです。自分と自分がお互いに仲良くなるとき、そこに本当の平和が起こってくるということです。「二人が見つめる一つの同じ方向」には、イエス・キリストの神がおられます。それも遠いところにではなく、今、ここに、聖霊としてイエス・キリストが、私たちと共にいつも終わりの日まで一緒に歩んでくださっていることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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