◎先週、私は2つのことで緊張させられました。1つは文科省の教科書検定で、ある教科書が中学校の歴史教科書として合格したことです。教科書名は日本史ではなく「国史教科書」であり、著者は明治天皇の曾孫になる人です。
彼は『天皇の国史』を書き、その中で、「旧約聖書が語っている神は、宇宙を造った神であり、古事記が語っている神は、宇宙が造った神である」と語り、しかも古事記が書いている神話は歴史的事実であると主張して、現代の天皇の存在にまで結びつけて展開しています。この皇国史観に立ったものを文科省は教科書として認めたということです。
もう1つは7月の東京都知事選に田母神俊雄元航空幕僚長が立候補していることです。彼は10年前の都知事選で60万票を得ています。当確は別にして今回の彼の得票数は、60年安保闘争以来進められている自衛隊の皇軍教育がどれくらい進んでいるかの指標になるだろうと思います。
◎こうした動きに関心を持っているのは、これらが政治的な事柄ではなくて信仰の事柄であると思うからです。2040年が近づいています。百年前の1940年は皇紀2600年の年です。
皇紀とは昭和や平成などと同じ神武天皇の元号です。ですから神武天皇が即位して2600年目として全国を挙げて祝われ、4月に施行された宗教団体法の下で全ての宗教団体が国策に協力していきました。そして翌年、太平洋戦争へと突入して4年後に敗戦を迎えるまで狂気の嵐が吹き荒れました。その歴史について今は語りませんが、同じ時代状況を作り出そうとしているのが2040年つまり皇紀2700年なのです。
ところが現在のキリスト教会に多く見られるのは、社会問題への関心と取り組みです。障害者差別、性差別などの差別問題、経済格差、戦争、災害など、いずれも大切な事柄であって、決しておろそかにしてはなりません。しかし、あらゆる不正、不法、罪悪は何が生み出しているのかを聖書に立って考えるとき、明らかに偶像です。偶像を拝んでいることからあらゆる問題が起こってきていることを過去の歴史から学ばなければなりません。
◎なぜ日本が全国に空襲を招いて廃墟になったのか。なぜ原爆を落とされたのか。なぜ海外に侵略して暴虐の限りを尽くして敗戦を迎えたのか。それは天皇を生き神様と拝んだ結果招いたことではないでしょうか。これらのことを考えると、真の神を信じる教会にとって現在必要なのは、偶像崇拝拒否の姿勢を持つことではないかと思います。教会は、偶像にあふれ偶像に支えられている世間に囲まれている、じつに弱い存在です。
しかし教会は、神が御子イエス・キリストの歴史的、地上的な実在として建てられていて、初めの時と終わりの時にはさまれた今がどういう時であるかを知っており自覚しています。それが教会の強さです。今日お読みした聖書の言葉は、見よ、今が恵みの時である、見よ、今が救いの時である、と語っています。キリストの救いが十字架の死と復活によって成就して、キリストの福音が差し出されている「今」という時は、やがてキリストの再臨によって終わるのです。だからこそ今が恵みの時、救いの日なのです。
◎このように緊張させられながら聖書を読んでいた時、イエスもまた非常に緊張した状況の中にあったことを教えられました。彼は十字架に死ぬ前、何度も自分を光にたとえて、時間の終わりが迫っていることを示されました。そのことは特にヨハネ福音書が伝えています。
<だれも働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である>(ヨハネ9:4~5)、また<光は、今しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい>(ヨハネ12:35~36)と、ご自分の死が近いことを自覚して真剣に語っています。
◎それなのにイエス様よりはるかに年をとっていて、残り時間が短いと知りながら緊迫感がなく、相変わらず無意味なことを繰り返しています。主よ、助けてください。このまま無意味に人生を終わりたくありません。意味ある充実した時を過ごさせてください。あなたは私の残りの時間をご存じです。そしてイエス様、あなたが私の内に住んでおられることを信じます。このように祈っていた時、ペトロがヨハネのことを尋ねる場面を思い出しました。
「ペトロよ、私を愛するか」とイエスから3回も問われ、「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えるペトロの場面です。この時ペトロが振り向くとヨハネがついてくるのを見て、「主よ、この人はどうなるのですか」と尋ねると、<私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい>(ヨハネ21:22)と語った言葉が私に聞こえました。
◎自分の人生を、人と比べたり、時代の動きに合わせるのではなく、目を天に向け、神の大いなる計画に心を合わせて、焦らず、大胆に、希望をもって今の時を過ごしたいと思います。
この「神の大いなる計画」とは、神が天地創造の時に立てたもので、一言で言えば「契約」です。聖書が旧約聖書・新約聖書と言っているように、聖書は始めから終わりまで神の契約を語っている書物です。その契約の内容は、<私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる>というもので、神の方から一方的に結んだ約束です。しかも信仰の有無には関係なく、全人類に向かって約束した神の契約です。その契約を実現するために神は天地を創造し、とりわけ人間を神の作品として創造されたのです。この契約の歴史を書いているのが聖書なのです。
◎神の方から立てた契約ですから、決して神は契約を破ることはありません。その神は、初めはいと高き神としてご自分を現し、やがて降ってきて身を低くされ、私たちと共にいる神としてご自分を現し、さらに神は、私たちを清め、高め、神の子とするために、私たちの内側に住む神としてご自分を現しました。このおどろくべき3つの段階で神は契約を実現されるのです。
❶近づきがたく、いと高き神は、古代エジプト帝国にモーセを遣わして、イスラエル民族を奴隷から解放するわざをされました。そのとき10の奇跡を行なってエジプト王を追いつめ、エジプトから脱出しますが、心変わりしたエジプト軍に迫られ、海を前にして絶体絶命のとき、神の力によって陸となった海を無事に渡りました。また神は、荒野で水も食料のない中で40年間もマナという食べ物で彼らを養いました。そしてシナイ山で神自らが書いた十戒を授けました。約束の地カナンに入り、偶像崇拝に陥っていくイスラエルの民を、心から愛するがゆえに徹底的に裁きます。その裁きは、アッシリアやバビロニアという大国を動かし用いて行なわれました。
このように神は、大いなる奇跡をもってご自分を現されましたが、そうすればするほどイスラエルの民にとって神は、近寄りがたい、遠い存在となっていきました。
❷しかし神は、預言者をとおして近づき、共にいることを約束されました。例えば、神は預言者イザヤを通して、<恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える>(イザヤ41:10)と語っています。<私はあなたと共いる>という約束は、人間イエスとなって具体的に実現されました。
注意していただきたいのは、彼がいと高き神の子であることに変わりないということです。私たちは太陽を直接見ることはできません。もし聖なる神、いと高き神がご自分を現わされたら、同じように私たちは、神を絶対に見ることはできません。だから神は、見ること、語ること、触れること、親しく共に交わることができる姿で現れて、ナザレで大工の息子として育ったのです。それは神が人間を愛するゆえに取られた行動でした。つまり、<私はあなたがたの神となる>という約束を神は果たされたのです。しかし、ユダヤ人たちは、イエスが神を父と呼び、自分を父と一つであると語るのを我慢できず、妬み、憎み、殺すに至ったのでした。
❸神が人間となったということは、神が御子において人間を受け容れたということです。そして、この御子イエス・キリストが受難の道を歩まれたのは、人間を愛する計り知れない神の愛から出た行為でした。イエスは、いと高き神の子であり、神なのです。その彼が、貧しく卑しい身となって、私たちと同じ苦しみ、同じ誘惑、同じ悲しみ喜びを経験されました。
しかし彼は、決して聖さを失わず、悲しみにありながら悲しみを超え、死に脅かされながら死を超えておられました。彼は知恵に富み、愛にあふれ、自由であり、病人を癒し、憐れみ、パンをもたらし、盲人の目を開け、手足の不自由な人を治し、嵐を静め、死者を生き返らせ、とことん謙虚でした。さらに彼は、偽善と悪に対しては毅然として決して妥協せず、どんなに孤独と恐れとむなしさに追いつめられながらもこれに勝利し、罪がもたらす死にも打ち勝ちました。
つまり、イエスは、完全な人間としての人生を私たちに代わって送り、十字架の死に至るまで完全な人間として生き抜かれたのです。この人間イエスを神は甦らせました。そればかりか聖霊として降って私たちの内に住んで下さって、私たちをきよめ、永遠の命に生きる神の子とするために、あのペンテコステの出来事が起こされました。これこそ<あなたがたは私の民となる>という約束を、神ご自身が果たされたのです。
◎神は、いと高く近づきがたい神から、私たちと共にいる神となり、さらに私たちをきよめ、高め、永遠の命に生きる神の子とするために私たちの内に住む神となって、あの契約を果たされました。これこそ神がキリストにおいてなされた和解の業なのです。
今日の聖書個所は、5章20節から読むと、パウロの言おうとしていることが伝わってきます。彼はキリストの使者として2つのことを願っています。①神と和解させていただくこと、②神の恵みを無駄にしないこと、この2つです。今を逃せば二度と手にできない神の素晴らしい恵みを受け容れなさい、なぜなら、見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日として、急を要することだから、とパウロは語っているのです。
◎この和解の恵みとは、神に敵対し、背いている私たちが神と和解するということです。しかし、人と和解することさえ難しい私たちです。まして私たちには、神と和解することなどできません。私たちが人と仲直りすることが難しいのは、損をしたくないからです。ところが神の子キリストが十字架にかかって死なれたのは、神が損をされたということです。
私たちには、この神の恵みを祈って自分のものにすることが約束されているのです。ですから、なかなか人との関係で和解をすることができないとき、祈り願って、神の和解の恵みにあずかることが約束されていることを信じて歩みたいと思います。
◎ある時、こんな人がいることを知って驚きました。私は人から「あんたは上からの目線でものを言う人やね」と言われると、すぐにカッとなります。ところがその人は、「あんたは上からの目線でものを言う人やね」と言われて「ごめんね」と言ったのです。えっ、なぜ? しかし、たしかにその人が日ごろから言っていることを思い起こしてみると、「神の和解の恵みを自分のものとしたからだ」と言っているので納得できました。
私に命を与え、生かしてくださっている神が、私のような者のために苦しみを受け、私の罪を贖って、私の死の代わりに死んでくださったことを知った時、私は何と弱い、つまらない、すぐにカッとなる人間かと気づかされた。そして、それで終ったんじゃなくて、それで一生懸命に祈った。聖霊の助けを願い求めた。そして、気がついたらいつの間にか「ごめんね」ということができるようになった。そういうことではないかと思います。
本当に私たちも、そのような和解の恵みに与りたいと思います。いや、与ることが許されていることを信じて、感謝して歩みたいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜