2024年8月18日 聖書:ヘブライの信徒への手紙10章5~10節「真の平和を実現するキリスト」川本良明牧師

◎戦後79年を迎えた8月15日、防衛大臣が靖国神社を参拝しました。今年1月には陸上自衛隊幹部が集団で参拝しており、また毎年この時期になると国会議員も集団で参拝しています。理由は様々だとしても靖国神社が特別な神社であることを考えると、教会にとっても避けられない歴史的事情があります。なぜなら1941年6月に30余りのプロテスタント教会が統合されて日本基督教団が成立したのは、その前年に施行された宗教団体法によるからです。
◎靖国神社は明治維新から12年後に創建された神社です。当時の政府は、戊辰戦争など幕末以来戦死した官軍兵士の慰霊のために東京招魂社を建てて伊勢神宮に次ぐ扱いをしました。この東京招魂社を西南戦争の戦死者を祀ったのを契機に1879年に靖国神社に改称したのです。
 元来神社の御神体は自然崇拝が生み出した神であって人間は祀らないのですが、明治維新以後、湊川神社など天皇に特別に忠義な人間を祀るようになります。それは徴兵制度による軍人は皇軍兵士であり、将来必ず迎えるであろうその戦死者を祀る神社を必要としたからで、これによって創建されたのが靖国神社です。そのことは現実となり、1894年に起こった日清戦争で1万4千名の戦死者を祭神として祀り、1904年の日露戦争では8万8千名以上もの戦死者を祀ることになり、急増した祭神をこの時から英霊と呼ぶようになりました。
◎こうして靖国神社は国民にとって死に直面する所となります。しかし儀式のみの神社は、人間の魂に訴える宗教的深みを持っていません。そこで人々は仏教やキリスト教などの諸宗教に魂の救いや慰めや生きる希望などを求めたのでした。ですからその限りにおいて政府は諸宗教の活動を認めたということが言えます。なぜなら基本的には、「安寧秩序を乱さない限りにおいて信教の自由を認める」という憲法下にあったからです。
 ところが1930年代以降、中国との戦争が行き詰まって一気に戦場が拡大して、英霊が百万を優に超える時代が来ると、靖国神社は、宗教性の強い特別な重みを持つ施設に変わっていきました。このころになると戦争遺児たちが靖国神社参拝に集団で参列するようになります。これから紹介するのは1940年の作文ですが、父が戦死した小学6年生が参列した時の感想文です。「草木の芽のもえ出ずる三月の末はなつかしい父との対面であった。/桜咲く九段の靖国神社の前にちかづいた時はただうれしいと思ふ心で胸一ばいであった。/父はしょう殿の奥深くより僕の大きくなったことや元気で対面に来たことを見てどんなに喜んだことでせう。僕は眼を閉じた。そして『お父さんは御国の為に尽したりっぱな人です。僕は先づお母さんに孝行をし、早く大きくなって御国の為につくしますから安心して下さい。』」当時の子供たちの一般的な思いであったと思います。
◎このように靖国神社の重みが増すと、諸宗教は弾圧の道か宗教報国の道かの選択を迫られました。そしてキリスト教の諸教会は、宗教をもって国に報いる道を選びました。1940年に青山学院に集まった2万人のキリスト者たちが「皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会」を開いて国体をたたえました。国体とは、世界のどの王朝を見ても血みどろの権力闘争によって断絶し交替してきましたが、日本だけは古代から今日に至るまで切れ目なく天皇の王朝が続いてきたことを美化して呼んでいる言葉です。この国体をたたえて、その翌年6月に日本基督教団を創立させたのです。
 その後献金を集めて「教団号」という航空機を献上するなど積極的に国策に協力していきます。その詳細は省きますが、ここで1944年4月11付の全国機関紙の一文を紹介します。「靖国神社の招魂祭」の見出しで概ね次のように語っています。「基督教は血の意義を最も深く自覚した宗教である」と述べ、ヘブライ9:14を引用して、「血の意義の深さを伝統として有した初代日本基督者が、キリストの血の意義に初めて触れた時心躍ったのは当然である。キリストの血に潔められた日本基督者が、護国の英霊の血に深く心打たれるのは血の精神的意義に共通なものがあるからである。」キリストが十字架で流された血の意味を逆転させて語っているこのおどろくべき言葉を前にして、私たちに求められているのは、何よりも聖霊の力にあずかって、聖書を正しく読むことであると思うのです。
◎神が人間イエスとなってこの世に来られ、十字架において死を遂げられたのは、私たちを永遠の死から救うための神の愛のわざでした。その流された血の意味を教会は初代からずっと語り継いできました。それを一言で語ることなど人間には困難です。そこで代々の教会は、①法律的な面、②経済的な面、③軍事的な面、④祭儀的な面という4つの面で表現してきました。
 ①法律的な面とは、罪を犯せば刑罰を受けねばなりませんが、私たちは、神と隣人に対して犯している根源的な罪を自分で償うことはできません。これに対してキリストが、私たちに代わって十字架にかけられて刑罰を受けてくださったということです。
 ②経済的な面とは、イエスが王様に1万タラントンの借金をしていた家来を王が赦してやる譬え話を語っています。1日の労働賃金は1デナリオンです。1タラントンは6千デナリオンです。つまり16万年分の賃金に相当する私たちの罪を、神はキリストにおいて帳消しにしたくださったのです。これを罪の贖いとか身代金の支払いとも言ってきました。
 ③軍事的な面とは、<悪魔の策略に対抗できるように神の武具を身につけなさい>と勧められているように、悪魔は私たちを神から引き離し、マイナスの方に引っ張っていきます。キリストは、公の活動を始めるとすぐに洗礼を受け、そのまま荒野に行って悪魔の誘惑を受けました。悪魔は空腹の彼に「神の子ならば石をパンにせよ」と言って、人間であることをやめるように勧めました。しかし彼は、<人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きるのだ>と言って退けました。その後も誘惑し続けた悪魔は、十字架にかけられたキリストに「神の子ならば十字架から降りたらどうだ」と誘いましたが十字架から降りずに最後まで抵抗しました。そしてその死をもって、私たちのために、私たちに代わって、悪魔と死に勝利されたのでした。
◎最後の④祭儀的な面こそヘブライ人の手紙にあふれている内容です。<イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった>(2:17)をはじめ、イエス・キリストが大祭司であることを繰り返し語っています。そこで先ほどの聖書の個所をもう一度見てみます。
 <あなたは、いけにえや献げ物を望まず…>とある「いけにえ」とは、神に喜ばれるためや神の怒りをなだめるために献げるものです。悪いことをしたら許してもらうために償わねば怒りを買います。神の怒りは、神にそむくという罪が招くものです。イスラエル民族は、その罪の贖いのために獣をいけにえとして献げる祭儀を律法に従って行なっていました。
◎ところが著者は、雄牛や雄山羊を献げても完全に罪を取り除くことができないと述べた後、完全に罪を取り除く祭儀を語るために詩編40章7~8節を引用しました。しかも7節の<私の耳を開いてくださいました>を<私のために体を備えてくださいました>と書き換え、8節の<そこで私は申します。御覧ください、私は来ております。…>を<そこで、私は言いました。『御覧ください。私は来ました。…神よ、御心を行うために。』」と書き換えています。つまり、神が人の体を備えたキリストとして来られたと語った後、そのキリストが、神の御心に基づいて行なった決定的な事柄を伝えようとしているのです。
 その決定的な事柄がヘブライ10:10の言葉です。<この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです>。この<ただ一度献げられた>とは、同じことを繰り返す必要がない、完全に終わったという意味です。もちろん<イエス・キリストの体が献げられた>とは、十字架にかけられて死んだことです。
◎雄牛や雄山羊などによるいけにえの血は、罪を取り除くことができないけれども、今や罪のない神の子がいけにえとなったことで、完全に罪は取り除かれたのです。洗礼者ヨハネがイエスの姿を見て、<見よ、世の罪を取り除く神の小羊>と言っています。また過越祭に神殿で小羊を献げる同じ時にキリストは弟子たちと最後の食事をして、<これは私の体です。これは私が流す血です>と言われて、パンと杯を弟子たちに与えられました。そしてこの後、彼は自ら進んで十字架に架けられていくのです。このようにキリストは、法律的、経済的、軍事的、祭儀的な面で、私たちの救いのために私たちに代わって十字架において血を流されたのです。
 このことと今の日本の問題は、本当に深い関係があると思うのです。なぜなら日本で犠牲を捧げた典型的な場所は、240万以上の戦没者を祀っている靖国神社です。そして戦没者を今も英霊として祀っています。しかもお参りする人たちは皆、口をそろえて平和のためと言っています。だからこそ本当の平和実現のためにどうしたらいいのか、これは今後の日本を考える上でも見過ごすことのできない現実だと思います。
◎これをどうとらえるかはいろんな立場がありますが、私たちは、イエス・キリストこそ大祭司であって天皇ではないことを確認したいと思います。天皇が天皇としての最大の務めは祭司です。死ねば英霊となって靖国神社に祀られ、天皇に参拝されることを最大の名誉と信じ、「靖国の桜の下で会おう」と言って散っていった戦死者を想うと、天皇の最大の役割が祭司であることを見落としてはなりません。今は上皇である明仁天皇が、慰霊の旅を重ね、遠く太平洋の島々の戦地にまで赴いて行ったのも、祭司としての役割を最大の務めであると信じていたからだと思うのです。
 けれども私たちは、キリストが十字架において流された血の意味を正しく知る者として、そのような天皇について、あるいは天皇に対して私は思うのです。「誰があなたを大祭司に任じたのか。戦没者を慰霊する資格を誰があなたに与えたのか。あなたは彼らの骨を生き返らせることができるのか。あるいはその骨に筋をおき、肉を付け、皮で覆い、霊を吹き込むことができるのか」と。
◎私たちは靖国神社に祀られている戦没者の遺族の方々が、戦後ずっと負ってきた苦しみや悲しみを受け止めることができないままに戦後79年の今を迎えているのではないかと思います。そして民族としての傷を負った社会の中にあって、安易に平和を口にし、その歴史の傷をいやすこともできないでいます。本当の平和をもたらす力のなさを実感する者です。
 しかし私たちは、あのエゼキエルの預言のように、枯れた骨を生き返らせた神の言葉を信じています。そして預言者を通してこの言葉を語ったお方こそ祭司の中の祭司、大祭司イエス・キリストなのです。ですからなおさら戦没者は、すでに子羊として本当の羊飼いであるキリストの懐に抱かれて、彼ら一人ひとりの生涯は、神の書物に記されていることを知っています。そのことを信じているからこそ私たちは、本当の平和を偽物の平和に置き換えてはならないのです。そうした思いと信仰に支えられながら、この現実の中で本当の平和を真剣に求めていきたいと思います。

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