⦿北九州地区の教師会では、会場教会の教師が短い奨励をした後、持ち回りで教師が担当して学習する時間を設けています。学習テーマは担当者に任せているので内容はいろいろですが、9月の教師会では、担当者は、自分の教会で今検討している週報の礼拝式順を紹介しました。
その概略は、[神の招き]招詞→[悔改め]交読詩編・十戒→[神の言葉]祈祷・聖書・説教→[感謝]献金→[派遣]祝祷、というものでした。私が注目したのは、<十戒>があり、それを全部読んでいることです。また地区内の19教会のうち3つが<十戒>を入れているとのことでした。
⦿十戒は、旧約聖書の出エジプト記20:2~17と申命記5:6~21に書かれていて、安息日の掟の一部分以外は、言葉も〔前文→神への掟→隣人への掟〕という形式もまったく同じです。この十戒をイスラエル民族は、神の力でエジプト帝国の奴隷身分から解放された後、シナイ山の麓まで導かれて、モーセを通して神から与えられました。
じつは十戒を与えられる430年も前に、彼らの先祖であるアブラハムは、神からおどろくべき約束を与えられていました。その約束に基づいて、神は彼らをエジプトから脱出させたのです。その約束は、創世記12章1~3節に書いてあります。これは契約の条文のようになっているので、アブラハム契約と呼んでいます。
聖書の神は契約の神です。これが世界の神々と違うことです。もちろん日本の神々も契約の神ではありません。聖書の神は、契約に基づいて働かれるので、神の前で何をしたらいいのか、何をしたらいけないのか、いったい神は何をめざして働いておられるのか、はっきりしています。
⦿そのアブラハム契約は、3つの約束から成っています。①土地の約束、②子孫の約束、③祝福の約束という3つです。一般に契約は、当事者同士が互いに負担する双務契約ですが、聖書の神による契約は、一方的な片務契約です。これは大きな恵みです。なぜなら、私たちにどんなことがあろうとも、神が示した約束を、神は絶対に破ることがないからです。
事実、アブラハムは、契約を受け容れましたが、ちょっと風が吹くと、迷い、人を恐れ、神よりも人の言葉に従う、じつにもろい人でした。しかし、神は、そういうアブラハムを選んで契約を結んだわけですから、彼がどんなになびいたり、迷ったり、つまずいたり、破ったりしても、神はしっかりと彼を捕まえて、彼にとって最もふさわしいときに、最もふさわしい言葉をかけながら、契約を具体化していきました。
⦿神は、あの約束を一度だけ語ったのではありません。例えば土地については、創世記12:7,13:15,17:8でも語っています。子孫についても13:16で、<あなたの子孫を大地の砂粒のようにする>と語っています。15:5では、<主は彼を外に連れ出して言われた>とあります。このとき彼はとても迷っていた時でした。その彼を神は天幕から連れ出して、<天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる>と語りました。じつに神は、彼にとって一番ふさわしいときに語りかけているのです。
また祝福の約束については、神は12:2で、<あなたは祝福の源となる>と語って、アブラハムを通して全人類を祝福し、救うことを約束しました。この約束を裏づけているのが、<子孫>が単数であることです。使徒パウロがふれているのもそのことです。つまり彼は、ガラテヤ3:15で契約を必ず守る神を語った後、その神が創世記12:7でアブラハムに、<あなたの子孫にこの土地を与える>と語っている子孫が、単数で書かれていると指摘しています。
⦿それはパウロがその個所をそのように解釈したからではありません。他にも創世記13:15,17:8,17:19、24:7などにも書かれていることを彼は知っていました。そして神は、<子孫>について、アブラハムだけでなくアダムの物語でも語っています。
エデンの園でアダムとエバは、悪魔の化身である蛇の罠にかかって罪を犯しました。その蛇とエバに、神は次のように語っています。<お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。>(創世記3:15)。<女の子孫>は単数であり、<彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く>とは、明らかにイエス・キリストの十字架の死を語っています。パウロは当然このことを知っています。しかも彼は、復活したイエスに出会っています。ですから彼は、聖書が書いているこの子孫が、イエス・キリストであることを確信して語っているのです。
⦿そして、次の17節が今日のメッセージの中心なのですが、<私が言いたいのは、こうです>と念を押した後、<神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。>と語っています。この契約と15節の遺言は同じ言葉です。
つまりパウロは、15節で遺言に喩えて語ったように、神の契約に基づいて結ばれた約束を律法が無効にすることはできません。否、むしろ、律法が約束に続いて起こったのであり、そのことによって、約束は成就し、約束が成就されることによって律法も成就したというのです。イエス・キリストは、<私が来たのは律法を廃止するためではなく、律法を完成するためです。>と言われました。約束を果たすためにイエス・キリストは来られました。そのイエスが律法を完成したのです。ですから、ここでパウロは、福音と律法について語っているのです。
⦿神は、イスラエル民族に十戒を与えるとき、モーセに箱と石の板2枚を造り、その板を持って山に登るように命じました。神はその板に十戒を刻み込みました。それを持ってモーセは山を下り、箱の中に納めました。その箱が契約の箱なのです。ですから福音という契約の箱の中に律法つまり十戒を書いた板が納められていることになります。
福音と律法は互いに別ですが、律法は福音の中にあります。律法のない福音は福音ではないし、福音のない律法は律法ではないのですが、律法は福音の中にあるのですから、律法とは何かを知るためには、まず福音について知らねばなりません。その逆であってはならないのです。
⦿礼拝の式順に十戒のある教会のことを最初に紹介しましたが、このことは、福音と律法に生きる私たちにとってとても大切であることに気づかされました。用いている十戒が、出エジプト記にあるものか申命記にあるものかをお聞きしませんでしたが、私が気になったのは、それを使徒信条のように全部読み上げていることです。
そこで思い起こすのはイエスの言葉です。十戒を、<神は唯一で、ほかに神はない。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、また隣人を自分のように愛しなさい>と2つの掟にまとめて語った律法学者に対して、イエスは、<あなたは神の国から遠くない>と言われています(マルコ12:32~)。
⦿それよりもっと気になったのは、十戒を、[神の言葉]である聖書・説教の前に[悔改め]という個所を設けてそこに置いていることでした。この「律法から福音へ」という順序は、伝統的な教会のあり方です。律法が正しい場所に置かれることはとても大切なことです。
しかし、最初に律法を述べて、その上で、福音を語る人は、どんなに真剣に律法を語っても、神の律法を語ってはいないし、当然神の福音を語っていることにはなりません。それは人間の掟あるいは世の中の物差しを基準にして語っているにすぎません。まして最初に聖書の十戒や掟を語って、神は人間を罪人と見ていると指摘し、その罪から救おうとしてイエス・キリストがおられます、だから悔い改めてキリストを信じれば救われますと説くならば、誤った罪理解に陥らせて、かえって重荷を負わせることになります。
⦿私たちは、「福音から律法へ」という順序に置き換えねばなりません。まず福音が聞かれるとき、自分が罪人であることが自覚されます。簡単に言えば、イエス・キリストを通して示された神の愛を知るということです。あなたが神を愛する前にすでに神はあなたを愛し、あなたが神を選ぶ前にすでにあなたは選ばれていることを知るとき、私たちは自分の罪を自覚し、悔い改め、喜んで神の律法に従っていくことが起こるのです。
私たちは、本当の福音について、また律法の正しい役割について、まだ十分に知りません。しかし、これらについて既に与えられていると信じて祈るならば、必ず叶えられると約束されています。ですから、誤った知識によって負わされた重荷から解放されて、本当の福音と本当の律法に生きるために、共に信じて祈っていきたいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜