⦿先週は、イエス・キリストの苦難を覚える受難週であり、特に一昨日の金曜日は、十字架の死を覚える日でした。そこで私たちは、キリストの受難を聖書から知ることが大切と思い、マルコ福音書が伝えている、十字架の上でのイエスの生々しい叫びを聞きました。
それは、息を引き取る直前に大声で叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びでした。著者マルコは、これがまぎれもなく、死にゆくイエス自身の言葉であることを伝えようとして、イエスが日常使っていたアラム語をそのまま書き記していると指摘しました。
⦿しかし、その後、質問を受けました。マルコは、イエスが十字架に死ぬとき、そこにいなかったはずなのに、なぜイエスの叫びとして福音書に書くことができたのかという質問です。皆さんはどう思われるでしょうか。それは、たいへん良い質問だと思います。私は、イエスの処刑を執行した百人隊長が証言したと思っています。
百人隊長というのはローマの軍人です。彼がイエスを知ったのは、総督官邸に引いて来られたときからです。犯罪人2人とイエスをいつも通り手続きをすませると、ゴルゴタに連行していきましたが、すでに彼は、イエスから眼が離せなくなっていました。
私たちは、<屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった>という預言者イザヤの言葉を知っています。もちろん百人隊長はそれを知るはずもありません。ただ、彼はイエスを見ながら、これまで何度も見てきた死刑囚とはまるでちがうことに驚いたのです。そして、ゴルゴタに連行するときに、他の犯罪人とちがってすぐに力なく倒れてしまい、通りかかった男に十字架を担がせねばなりませんでした。
また意外だったのは、大勢の群衆が押し迫っているのですが、いつもならば、見せしめであるローマの処刑に対して人々が反発する動きがあるのに、今回は少しも不穏な動きがないことでした。さらに意外だったのは、十字架に架けられるときも、一言もなく、静かで、平和で、何かを待つようであり、むしろユダヤ人の指導者たちが、口汚く罵り、呪いの言葉を投げつけていることでした。そして、真昼なのに薄暗くなり、3時に、突然、彼は、イエスが大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ぶのを聞きました。
⦿この百人隊長について、マルコは福音書の中で、<彼は、イエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。>と書いています(マルコ15:39)。百人隊長にとって、それは決して忘れることのできない体験でした。やがて教会が広がってきたとき、彼は人々があの十字架で死んだ人物を救い主と信じていることを知りました。
彼がどんないきさつから教会とつながりを持つようになったかは分かりませんが、教会に温かく迎えられた彼は、イエスに出会ってからその最期までの一部始終を証言したと思います。それを聞いた人々は、真剣に彼の証言に耳を傾けました。これは決して推測ではありません。なぜなら、十字架刑で死んだ人物を、「この人は神の子だった」と告白することなど、生まれながらの人間には決してできないからです。それは神の奇蹟のわざであり、復活のイエスの聖霊を注がれないかぎり、告白することなど決してできるものではないからです。
⦿いずれにせよ、マルコは、イエス自身の最期の言葉を福音書に書き記しました。しかし、彼にとって、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」という言葉はじつに謎めいていました。たしかに彼は、イエスの言葉として書いてはいますが、それがどういう意味なのか分かりませんでした。彼がその意味を知ったのは、ペトロを通してではないかと思います。
ペトロはマルコを「私の子」と称んでいます(Ⅰペトロ5:13)。これは実の子という意味ではなくて信仰的な意味です。つまり、マルコは、ペトロに導かれて信仰に入った人です。彼の福音書の内容は、ほとんどペトロがマルコに教えた内容であると言われています。ですから、彼はペトロを通してイエスの十字架の死の意味を知ったと思うのです。
⦿ペトロについて少しふれますと、彼は、十字架に死んだイエスが復活して弟子たちに現れたとき、喜びながらも顔を上げられませんでした。というのは、イエスが逮捕されたとき、自分がイエスの仲間にされそうになって怖くなり、3回もイエスを知らないと言って逃げたことを思い出したからです。しかし、彼は、恥と悔いと喜びの中にあって、それまで抱えていた大きな謎が解けたのではないかと思います。
あるときイエスが弟子たちに、<あなたがたは私を何者だと言うか>と問うたとき、ペトロが、「あなたこそメシアです」と答えると、イエスは、<私は人々から苦しみを受け、捨てられ、殺される>と受難を予告しました。それを聞いたペトロは、ユダヤ人の王として来られたメシアがなぜ殺されるのかと衝撃を受けました。そのことのためかどうか知りませんが、その一週間後、イエスは、ペトロとヤコブとヨハネの3人を連れて高い山に登りました。すると突然、イエスの姿が輝きました。そこへモーセとエリヤが現れて何事かを話していましたが、まもなく雲が覆い、「これは私の子、これに聞け」という神の声がして、元の姿のイエスがそこにいました。そして、山を降りるとき、イエスは3人に、「私が復活するときまで、今のことをだれにも言ってはいけない」と言われました。このとき、ペトロは大きな謎を抱え込んだのです。
⦿2、3年前にイエスから招かれて弟子となって以来、彼の権威ある教えを聞き、病を癒やし、悪霊を追い出し、自然界を支配し、死に打ち勝つなど、多くの奇跡と不思議なわざを見てきました。ところが、今、輝く姿を見て、ペトロは、元々イエスはそのようなお方であることを知ったのです。それなのに、なぜ苦しみを受け、殺されると言われるのか。そして、事実、自分からエルサレムに向かって進んで行き、十字架に殺されていったのです。なぜなのか。あの山で目撃した栄光に包まれたイエスが、なぜ殺されていったのか。……
ところが、そのイエスが復活したのです。死んだままで終わらずに、再び戻ってこられたのです。復活したイエスを前にして、あの山上で姿が変貌したこと、何度も受難と同時に復活を予告していたこと、いつも毅然としていたのにゲツセマネで突然悶え苦しんだイエス、そのイエスを見捨てただけでなく、その繋がりを断ち切ってしまった自分たち。そんな自分たちのところに再び来られたイエス。しかも前と変わらず自分たちを信頼し、愛の絆で離さないでいるイエス。それらのことを思いめぐらしながら、ペトロは、イエスの十字架の死の意味を知ったのでした。
⦿教会は、神が人間イエスとなってこの世に来られ、十字架において殺され、3日目に復活されたことを伝えてきました。そして、それが私たちを永遠の死から救うための神の愛のわざであったことを語り継いできましたが、十字架においてイエスが流された血の意味を、人間である私たちが完全に理解することなどできません。しかし、教会は、その意味を可能な限り正しく伝えるために、法律的、経済的、祭儀的、軍事的な4つの面から語ってきました。
①法律的な面とは、人間は罪を犯したら刑罰を受けねばなりませんが、イエスは、私たちのために、私たちの代わりに裁かれて、刑罰を受けてくださったのです。
②経済的な面とは、人間は誕生から今日まで膨大な罪の借金を抱えていますが、神はキリストの十字架の死によってすべて帳消しにし、罪の身代金を払ってくださったのです。
③祭儀的な面とは、聖書には「血は命である」という御言葉があります。人間は罪を犯したらそれを償うために羊や牛を捧げて、その血でもって罪の贖いをします。しかし、羊や牛を捧げても完全に罪を贖うことはできません。ところが、洗礼者ヨハネがイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と証ししたように、イエスは完全な小羊としてご自分を犠牲として捧げて、私たちの罪を贖ってくださったのです。
④軍事的な面とは、私たちが罪と死を招いているのは決して偶然ではありません。私たちが罪を犯し、その結果として死ななければならず、それも永遠に神から捨てられねばならないように私たちをおびえさせているのは悪魔です。その悪魔とイエスは戦い、十字架に死んでその戦いに勝利してくださったのです。イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれて、本来私たちが永遠に神に捨てられなければならないのに、イエスが私たちに代わって捨てられて、悪魔との戦いに勝利して下さったのです。
⦿このように神は、人間イエスにおいて、私たちの救いのために、十字架にかけられて死ぬことによって、罪と死を滅ぼしました。そしてその戦いが完全な勝利であったことを宣言するために、神はイエスを復活させたのです。しかし、その戦いはまだ終わってはいません。今もその戦いは続いています。もちろん戦いが失敗したのではありません。イエスは十字架の死において、戦いに完全に勝利した人間として復活されたのです。
ところでイエスは、ユダヤ人の王としてこの世に来られました。そして、神に選ばれたイスラエルの民と共にメシアの王国を建てようとされました。ところが、彼は、愛する契約の民イスラエルから、悪霊の頭ベルゼブルだと断定され、排斥され、十字架に殺されたのでした。しかし、天地を造られた神の計画を妨げることはできません。神は、約束していた彼らの先祖アブラハムの祝福を、ユダヤ人から全ての異邦人にまで広げられました。こうして、異邦人とユダヤ人が共に神のために働く教会の時代が来たのです。そして、復活したイエスは、聖霊として私たちの内に住まわれて、私たちの罪と死と悪と戦われているのです。
⦿私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活を思うとき、キリストがユダヤ人の王として来られたことを決して忘れてはなりません。ユダヤ民族は、彼を拒否しました。それは今も続いています。しかし、彼らは神から捨てられたのではありません。神の計画は、終わりの日の完成に向かって進められています。その計画とは、メシアの王国が打ち建てられることです。
イエスは、公の活動を始めるとすぐに洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を受けました。それを退けた後、<時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。>と語られました。<神の国>とは、神の王国のことです。イエスは、ご自分を王なるお方として宣言されているのです。そして、弟子たちをユダヤ人だけの間に遣わして、そのことを知らせようとしました。ところが、指導者たちはそれを拒否したのです。
⦿今日お読みした聖書の個所では、復活したイエスが弟子たちに現れて40日間生活を共にしているとき、弟子たちがイエスに、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」と尋ねています。これをそのまま読むと、ローマと戦って、ローマの支配から解放されて国=政治的共同体が建てられるのはこの時ですか、と弟子たちがイエスに尋ねているように読めますが、そうではありません。この「国」は「神の国」の国(バシレイア)と同じ言葉です。それは王国です。神のバシレイアとは神の王国です。
弟子たちは、ユダヤ人の王として来られたイエスに、「今こそ王国が来るのですか」と尋ねたのです。それに対してイエスは、<父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。>と言われました。そして、イエスは、<今あなたがたがすることは、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。>と言われたのです。地の果てとは、異邦人の世界のことです。
⦿元々ユダヤ人たちにとって最大の期待は、やがてダビデのようなメシアが来て、神の国が建てられることでした。神の国の成就が旧約聖書からの一貫したテーマです。その時は来る。必ず来る。イエスが再臨されたときに完成すると聖書は語っています。そして今は、その時をめざして教会が建てられ、聖霊が働いて、神の民として私たちは教会に集められているのです。
ルカ福音書を書いたルカは、医者であり、歴史家です。彼は、福音が、わずか30年で辺鄙なパレスチナからローマ帝国の首都ローマにまで広がっているのを見て、これはまさに聖霊の働きであると確信しました。この聖霊の働きを目の当たりにして、彼は福音書を書いた後、使徒言行録を書いたのです。そして、その最後の言葉を、<パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた>と締めくくっています。ここでも神のバシレイア、神の王国が出てきます。パウロは、最後の最後まで、神の国を見すえながら活動していることが分かります。私たちも、主の復活をおぼえる今日、終わりの日に完成される神の国を見すえながら、十字架の死と復活を覚え、またそのことをお祝いしたいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜